第131話 基準を書いた者の責任
雪が解けた週の、四度目の局内会議だった。三度目までで、反対の理由は出尽くしている。手間が増える。判定の権威が下がる。外部の提案を持ち込むのは筋が違う。三つとも、エドガル・ヴェインは予想していた。予想していたので、三度とも反論しなかった。
四度目の朝、彼は議題を変えた。反論しない三度を先に使い切ってから変えた。
「本日は、様式の話をしません」
二十人ほどの監査官が、顔を上げた。四度目にして初めて、書き取りの手が全員止まった。
「第十七項の話をします」
彼は、卓に一綴りを置いた。前の三度は、何も持ってきていなかった。
「誤差記録欄の設置を求める項です。目的は、誤差を小さくすること。成案から一年半が経ちました」
彼は、綴りを開いた。
「四十件を数え直した者がいます。誤差記録欄の有無と、実際の誤差の大きさに、意味のある関係が見当たりません」
部屋が、ざわついた。第十七項は、成案のときに誰も異議を出さなかった項の一つだった。
「どなたが数え直されたのですか」
誰かが訊いた。名を訊く声には、たいてい二種類ある。確かめる声と、担ぎ出す先を探す声だ。
「ザーレ君だ」
エドガルは、部屋の隅を見た。テオドール・ザーレが、椅子の上で固まっていた。顔が赤くなり、それから白くなった。
「局長」
上役が、慌てて立ち上がった。部下が咎められる前に、差し戻した側の名を先に出しておく立ち方だった。
「その報告は、差し戻したものです。結論を引いている、と」
「差し戻したのは、正しい」
エドガルは言った。
「監査官の報告は、判定に関するものに限る。基準そのものへの意見は、正規の手続きで出す。局の規程どおりだ」
上役が、少しほっとした顔をした。
「ただ」
エドガルは続けた。
「その正規の手続きは、成案の三十日後に閉じている。以後、基準の不具合を出す先が、局内に無い」
誰も、口を開かなかった。閉じた手続きの話は、局内で一度も議題になったことがない。
「私が作った。二十二年、そうしてきた」
彼は、卓に手を置いた。指は組まなかった。組めば、演説になる。
「判断を人から外し、紙の上に移す。それは正しい。ただ、私は移したあとの紙を、誰が直すかを書き忘れた」
「局長」
別の監査官が言った。
「それは、基準に欠陥があるとお認めになる、ということですか」
「認める」
即答だった。ざわめきが、もう一段大きくなった。
「では、局長は退かれるべきでは」
声は、後ろのほうから来た。エドガルは、その方向を見た。誰が言ったかを確かめる必要はない。この局には、彼を疎ましく思う者が何人もいる。当然だと彼は思っている。二十二年、彼は人を煩わせることばかりしてきた。
「退かない」
彼は言った。
「なぜですか。ご自分の基準に欠陥があるとお認めになったのに」
「私が退けば」
エドガルは、卓の上の様式を指した。新しい欄の、いちばん下。判定者の署名欄。
「基準を書いた責任者の欄が、空白になる」
卓の上で、誰かの手が止まったのが見えた。退けと言った側の手だったかどうかは、確かめなかった。
「欠陥のある基準を作った者が退けば、欠陥は残り、責任者は消える。残ったほうを直す者がいなくなる」
彼は、様式を一度持ち上げて、また置いた。
「私が二十二年前に潰されたのは、そういう仕組みでだ。悪人はいなかった。担当が三度変わっただけだ」
誰も、何も言わなかった。エドガルは、部屋を見渡した。
「様式の採否は、来週決める。本日は決めない」
「では、本日は何を」
「一つだけ、決める」
彼は、テオドールのほうを見た。
「ザーレ君。前へ」
テオドールは、椅子を鳴らして立ち上がった。歩いて、卓の前に来た。膝が笑っているのが自分でも分かった。
「君の報告を、正規の手続きに載せる」
「……手続きは、終わっております」
「新しく作る」
エドガルは言った。
「基準の不具合を、局内から出す手続きだ。名前は、まだ無い。今日から作る。第一号を、君の四十件にする」
「私は、三年目です」
「知っている」
「差し戻された者です」
「それも知っている」
エドガルは、初めて少しだけ表情を緩めた。
「差し戻されて捨てなかった者を、私は探していた」
テオドールは、返事ができなかった。三年前、彼が監査局を志したのは、この人の講話を聞いたからだった。判断を人から外して、紙の上に移す。人の善意に頼らない仕組みを作る。
いま、その人が、自分の作った仕組みの欠けているところを、自分で読み上げた。
「局長」
彼は、やっと声を出した。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「差分の欄は、外から提案されたものだと聞きました」
「そうだ」
「なぜ、お採りになるのですか。外からの案です」
エドガルは、しばらく黙っていた。答えを探していたのではない。答えの置き場所を、この場に合わせて選んでいた。
「案に、外も内も無い」
彼は言った。
「私が二十二年やってきたのは、そういう仕組みだ。誰が言ったかで扱いが変わらない仕組みを作る。ここでそれを曲げたら、二十二年が嘘になる」
彼は、綴りを閉じた。
「来週、決める。反対の者は、来週までに反対の理由を紙で出せ。口頭は取らん」
会議が散ったあと、エドガルは一人で卓に残った。様式の見本を、もう一度見る。
リーデン町の判定。用いなかった数値。更新回数十六。欠測二回、いずれも大雪。
この欄が、来週通るかどうかは分からない。通らなければ、彼は退くことになるだろう。退けば、欄は消える。
だが、テオドールの手続きは残る。あの若い監査官は、来年も再来年も、四十件を数え直す。数え直したものを出す先が、局内にある。
それだけは、今日、作った。
それでいい、と彼は思った。
父の店は、それが無かったから潰れたのだ。
欠陥を認めて、退かない。この二つを同じ口で言わせるのが、敵役の設計の要でした。退けば責任者の欄が空く、という理屈は、この作品がずっと言ってきたことの、彼の言葉での言い直しです。次回、イルゼの綴り。四か月ぶんの事実の端に、事実でない一行が一つだけあります。ブックマークと評価は、局長にならって口頭では取りません。紙でどうぞ。




