第129話 ルーヴェルという名
二十三件のうち、十七件目が、ルーヴェル伯爵領の中にあった。クレアが一覧を作ったときには、地名しか書いていない。領主が誰かは、外された記録所の一覧に必要な情報ではないからだ。
馬車が領境の標を過ぎたとき、クレアは向かいの席をちらりと見た。エリシアは、窓の外を見ていた。表情は変わらない。
「ルーヴェル様」
「はい」
「十七件目は、明日にできます」
「なぜですか」
「……順路の都合です」
嘘だった。クレアは、嘘が下手だった。
「ミルトン様。気を遣っていただかなくて結構です」
エリシアは、窓から目を離さずに言った。
「私はこの領で十七年暮らしました。道は覚えています」
記録所は、領都の外れにあった。石造りの、小さな建物だった。
外された理由は、第二十九項──第三者検証の不在だった。検証できる人手が領内にいない。判定は正しい。よくある型だ。
記録係は、六十を過ぎた男だった。エリシアの顔を見て、立ち上がって、それから座り直して、また立ち上がった。
「……お嬢様」
「その呼び方は、もう合いません」
「はい。……はい」
男は、何度も頷いた。頷きながら、卓の上の帳簿を少しだけこちらへ寄せていた。
エリシアは、帳簿を見せてもらった。手続きは、他の十六件と同じにした。判定に用いられた数値。用いられなかった数値。外されたあと、何が起きたか。クレアが横で書き取る。
帳簿は、丁寧に付けられていた。人手はないが、意志はある。そういう帳簿だった。
三冊目の、二年前の頁で、エリシアの手が止まった。穀物の売却記録があった。量が大きい。時期が悪い。秋の収穫直後、いちばん値が付かない時期に、領内の備蓄がまとめて動いている。
売値が、相場の七掛けだった。
理由の欄は、空白だった。
エリシアは、その欄を見た。この帳簿の記録係は、理由の欄を、他の頁ではきちんと埋めている。天候、需要、輸送の都合。空白にしているのは、この一件だけだった。
書けなかったのだ。
彼女は、それが何の代金だったかを、計算しなくても分かった。婚約破棄の翌年、王宮に対して伯爵家がどれだけの立場に立たされたかは、想像するまでもない。娘が去り、王家との縁が切れ、それでも領は残る。残った領を回すには、金が要る。
訊けば、この記録係は答えるだろう。訊けば、答えが出る。
エリシアは、帳簿を閉じた。三冊目の頁に指を残さずに閉じた。残せば、あとで戻る。
「第二十九項の不適合ですね」
「……はい」
「検証者は、隣領から借りられませんか」
「隣領も、同じ理由で外れております」
「では、二領で一人を分けるのは」
記録係が、目を見開いた。外れると言われたのは去年で、それ以来この件で何かを提案されたことはない。
「そのような形が、許されますか」
「基準には、検証者が領内に居住していることを求める文言はありません」
エリシアは言った。
「私は昨年、この基準を四十七項すべて読みました。第二十九項が求めているのは、独立していることだけです。距離のことは書いてありません」
男は、しばらく言葉を失っていた。それから、震える手で帳面を開いて、書き取り始めた。書き取る速度が、途中から速くなった。
馬車に戻ってから、クレアが訊いた。領都を出るまで待ってから訊いた。
「二領で一人、というのは、いま思いつかれたのですか」
「いいえ。四件目で思いつきました」
「では、なぜ四件目で言われなかったのですか」
「言いました」
エリシアは言った。
「四件目でも、七件目でも、十一件目でも言いました。ミルトン様が書き取っていらっしゃいます」
クレアは、綴りをめくった。確かに、書いてあった。同じ提案が、四回。
「……私は、いま、一件目のように聞きました」
「聞こえ方が変わったのだと思います」
「なぜでしょう」
エリシアは、答えなかった。窓の外を、冬枯れの畑が流れていく。二年前、この畑から出た穀物が、相場の七掛けで動いた。
その七掛けは、誰かの選択だった。選んだのは、彼女ではない。彼女は既に王宮を出ていた。だが、選ばせたのは、彼女が去ったことだ。
これを、彼女は今日まで一度も勘定に入れていなかった。入れなかったのではない。入れる欄を、自分の中に作っていなかった。
判定に用いなかった数値。
自分にも、その欄があるらしい、と彼女は思った。
「ミルトン様」
「はい」
「一覧の十七件目、その後の欄に一行足していただけますか」
「どうぞ」
「『検証者の共有について、領境をまたぐ運用が可能かを監査局へ照会』と」
クレアは書き取った。書き取ってから、顔を上げた。
「ルーヴェル様。ここは、ご実家の領です」
「はい」
「お立ち寄りには」
「なりません」
即答だった。クレアは、それ以上訊かなかった。
しばらくして、エリシアが言った。訊かれなかったほうから、先に口を開いた。
「ミルトン様。二年前の穀物の売却について、理由の欄が空いていました」
「気づいておりました」
「あれは、記録として不備です」
「はい」
「ですが、今日は書きませんでした」
エリシアは、窓の外を見たまま続けた。
「書けば、数字になります。数字になれば、私はそれを読みます。読んだら、たぶん、何かをしてしまいます」
クレアは、綴りを膝の上で閉じた。ペンは持ったままだった。持ったまま、使わなかった。
「いつか、書かれますか」
「分かりません」
エリシアは言った。
「今日ではない、ということだけです」
理由の欄が空いていることに気づいて、訊かない。訊けば答えが出ると分かっていて、訊かない。第2部でエリシア自身の帳簿を開くのは、ここ一度きりです。舞台は王宮財務局へ。マリアンヌの二年目の集計は、去年より四日早く終わります。




