第127話 言葉が先に出る
言葉が漏れるのは、いつも中身より速い。
エドガル・ヴェインが様式案を局内に回してから十日で、王都の新聞が一段抜きの記事を出した。
『監査局、判定に「差分」欄を検討 外部からの提案』
アルノー・リヒターは、その記事を三度読んだ。三度読んでも、様式の中身については一行も書かれていなかった。書いてあるのは、外部から提案があったこと、局内で議論があること、そして最後の一文だった。
『監査局を信用しないのか、との声も上がっている』
「誰の声ですか、これは」
アルノーは、記事を机に置いた。置いてから、見出しが上に来る向きに直した。直したところで、見出しは変わらない。
「書いていません」
「書いていないから、効くのです」
エリシアが言った。彼女は記事を読まずに、別の紙を見ていた。港湾分の月次集計だ。今日やるべき仕事のほうを、先に片づけている。
「アルノー。この記事で、私たちが失ったものは何ですか」
「……信用、でしょうか」
「いいえ」
彼女は顔を上げた。集計の途中で顔を上げたのは、この日の朝から一度だけだった。
「様式の中身が読まれる機会です」
アルノーは、記事をもう一度見た。確かに、そうだった。差分という言葉だけが先に出た。中身──判定は変わらない、基準も変わらない、増えるのは欄一つと年間四十時間──は、どこにも書かれていない。
これから誰かが中身を読もうとしても、先に「監査局を信用しないのか」という枠を通ることになる。枠を通った目には、四十時間という数字も、信用しない側の言い分に見える。
「……こちらから、記者に説明する手はありませんか」
「あります。三日で、同じ紙にもう一つ枠が増えます」
「取り返せますか」
「取り返しません」
「では」
「同じ紙で戦いません」
エリシアは、月次集計に戻った。戻った先の行は、席を立つ前に見ていた行と同じだった。
「新聞に反論を出すと、反論した側が当事者になります。当事者が二人いる話は、勝ち負けの話になります」
三日後、宰相ヘルムートから、王宮への出頭の求めが来た。名目は照会だった。実質は、確かめに来いという呼び出しだった。
宰相の執務室は、記憶にあるより暗かった。窓は大きいが、書棚が高いせいで光が入らない。
「久しいな」
ヘルムートは、椅子を勧めなかった。エリシアも座らなかった。
「差分の件だ」
「はい」
「あれは、そなたの案か」
「様式の形は、私が提案しました。採るかどうかは監査局の判断です」
「監査局は割れている」
ヘルムートは、机の上で指を組んだ。組んだ手の甲に、以前は無かった染みが増えている。
「割れているのは中身ではない。局長が外部の提案を持ち込んだ、という一点だ」
「そうでしょうね」
「分かっているなら、なぜやった」
エリシアは、少し考えた。
「宰相閣下。順序が逆でしたら、通りましたか」
「順序」
「監査局の内側から同じ案が出ていたら、通りましたか」
ヘルムートは、答えなかった。答えないという答えを、この人は昔から正確に使う。
「実は、出ていました」
エリシアは言った。
「三年目の監査官が、四十件を数え直して、第十七項の効き目が確認できないという報告を書いています。差し戻されました。異議申し立ての期間は基準の成案とともに閉じていますので、出す先が無かったそうです」
「そなた、なぜそれを知っている」
「写字所で、罫の引き方の話をした者がいるそうです」
ヘルムートは、初めて眉を動かした。
「……ずいぶん、細い糸を辿るな」
「太い糸は、たいてい先に切られています。残っているのは細いものだけです」
沈黙があった。ヘルムートは、椅子の背に体を預けた。長く宰相をやっている男の、疲れの見せ方だった。
「エリシア・フォン・ルーヴェル。私は、そなたの案の中身には興味がない」
「存じています」
「私が見ているのは、監査局が割れるかどうかだ。割れた組織は、判定を出せなくなる。判定が出なくなれば、公開枠組みは半年で止まる」
「はい」
「そなたが作ったものが、そなたの案で止まる」
ヘルムートは、そこで言葉を切った。
「それは、避けたい」
エリシアは、その言い方を受け取った。脅しではなかった。宰相は、彼女を潰しに来たのではない。彼が守ろうとしているのは、公開枠組みそのものだ。この点で、二人は同じ側にいる。
「閣下。一つ、伺ってもよろしいですか」
「申せ」
「監査局が割れているのは、差分の欄が増えるからですか。それとも、局長が外から案を持ち込んだからですか」
「後者だ」
「では、割れの原因は、様式ではありません」
「そうだ」
「割れを止めるのに、様式を取り下げる必要はありません」
ヘルムートは、しばらくエリシアを見ていた。二年前、この執務室で同じ位置に立っていた娘は、答えを持たずに立っていた。
「では、何が要る」
「時間です」
エリシアは言った。
「局長が案を持ち帰ってから、まだ十三日です。二十二年やってきた人が、二十二年ぶんの局を説き伏せるのに、十三日は短すぎます」
「そなたは、待てるのか」
「待ちます」
彼女は、はっきり言った。
「待つあいだ、こちらからは何も出しません。新聞にも、王宮にも」
「何もしないと」
「一つだけします」
エリシアは言った。
「外された先を、順に見に行きます。二十三件あります」
ヘルムートは、その答えを吟味するように少し黙った。待つと言った者が、待つあいだの予定を先に持っている。そういう待ち方を、彼は久しく見ていなかった。
「それは、待つと言うのか」
「待つあいだに、しておくことです」
エリシアは言った。
「三年後に、この欄が読まれたかどうかを測ることになります。測る相手は、外された先です。いま顔を知らないままでは、三年後に訊きに行けません」
見出しだけが先に走って中身が読まれなくなるのは現実でもよくある事故で、この作品では反論しないことを対処法にしました。反論した側は当事者になり、当事者が二人いると勝ち負けになる。次回、王太子の机に宰相の一枚。前と同じ書き方の紙を、今度は裏返しません。




