第126話 名前をつける
エドガル・ヴェインは、約束の刻限ちょうどに現れた。
場所は監査局ではなく、ハルフェン本部だった。招いたのはエリシアの側だ。彼は「伺います」と即答した。招かれた場所へ行かないという選択肢を、この男は持っていない。持っていないからこそ、招く側は招き方を選ばなければならない。エリシアは、書面ではなく、アルノーの手ずからの一枚で誘った。
卓には、三枚だけ置いてあった。判定書の様式が一枚、実測の集計が一枚、そして、埋めた見本が一枚。
「ご説明を」
エドガルが言った。座ってから最初に見たのは卓の三枚ではなく、三枚の並べ方だった。
「様式に、欄を一つ足していただきたい」
エリシアは、一枚目を彼のほうへ滑らせた。滑らせる向きを、読める側へ揃えてある。
「判定と署名のあいだに、『この判定に用いなかった数値』という欄です」
エドガルは、様式を手に取った。読む速度が速い。三十秒ほどで顔を上げた。
「判定は変わりませんね」
「変わりません」
「基準も」
「変わりません」
「書くのは」
「監査局です」
彼は、二枚目を取った。実測の集計だ。百件で平均十二分、年間二百件なら四十時間になる、と最後の行に書いてある。
「この十二分は、どなたが測られましたか」
「実際に二年、同じ作業を続けてきた方です」
「お名前は」
「申し上げません」
エリシアは言った。
「名乗りたくないとおっしゃっています。名乗らせずに数字だけ使うのは、こちらの都合です。ですので、出典は『民間集計』と書いていただきたい」
エドガルは、集計表を置いた。置いた位置が、最初に卓へ出されたときと同じところだった。
「ルーヴェル様。私は、この様式の意味を、二つの読み方で読みました」
「どうぞ」
「一つは、監査局が自分の判定の弱点を毎回自分で書く仕組み、という読み方です」
「そう読まれると思っていました」
「もう一つは」
彼は、三枚目──埋めた見本を取った。リーデン町の判定だった。上から、案件名。判定日。適用項番。判定。そして新しい欄。
『この判定に用いなかった数値:更新回数十六(うち期日内十五)。欠測二回、いずれも大雪。出典:民間集計』
そして署名。
「基準が拾えなかったものを、基準を変えずに残す仕組み、という読み方です」
エドガルは、見本を卓に戻した。戻す前に、新しい欄のところで指を一度止めていた。
「私は、二つ目で読みました」
エリシアは、頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。読み方の問題です」
彼は、指を様式の新しい欄に置いた。まだ何も書かれていない幅を、上から下まで一度なぞった。
「ですが、局内は一つ目で読みます。ほぼ全員が」
「でしょうね」
「なぜ、そうならない書き方にしなかったのですか」
「なりません」
エリシアは言った。
「弱点に見えないように書こうとすると、当たり障りのない数値だけを書く欄になります。当たり障りのない欄は、三年で誰も読まなくなります。読まれない欄は、次に様式を直すときに真っ先に消えます。消えるように作るなら、最初から作らないほうがましです」
エドガルは、そこで初めて、わずかに口の端を動かした。消えるように作るなら作らないほうがまし、という言い方は、彼が局内で何度も使ってきた形だった。
「……そうですね」
「一つ、名前についてお願いがあります」
「名前」
「この欄の名前です。『判定に用いなかった数値』では長い。局内では、もっと短い呼び方が要ります」
「何と」
「差分」
エリシアは言った。
「判定と、判定に使われなかったものの、差です」
エドガルは、その言葉を口の中で繰り返した。二字の語が局内でどう転がるかを、その場で一通り転がしていた。
「差分」
「はい」
「──ルーヴェル様。差分という言葉は、監査を監査するという意味に取られます」
「取られると思います」
彼女は認めた。
「ですので、局内で説明されるときは、こう言っていただきたい」
エリシアは、卓の上で手を組んだ。ここから先は、言い方のほうが仕組みより長く残る。
「監査を監査するのではありません。差分を見せるだけです」
エドガルは、しばらく卓の三枚を見ていた。見ていたのは三枚ではなく、三枚を持ち帰ったあとの局内の顔ぶれだった。
「これを、私が持ち帰った場合」
「はい」
「局内で、私は基準を疑った局長になります。二十二年、基準を作ってきた人間が、最後に自分の基準を疑った、と」
「なります」
「私が退いたあと、次の局長は、この欄を最初に削ります」
「削られるでしょうね」
エリシアは、その可能性を否定しなかった。
「ですので、削られたときに残るものを、一つだけ足していただきたい」
「何を」
「削った日付と、削った人の名前を、判定書に残す欄です」
エドガルは、目を上げた。しばらく、彼はエリシアを見ていた。
「……あなたは」
彼は言いかけて、言い直した。言い直したのは、最初の一言が評価になりかけたからだった。
「あなたは、私が二十二年かけて作らなかったものを、一つの欄で作ろうとしている」
「作りません」
エリシアは言った。
「作るのは、監査局です。私は、外から欄の形を提案しているだけです。押しても押さなくても、私の設計は不適合のままです」
エドガルは、三枚を揃えて、鞄に入れた。立ち上がって、いつもどおり丁寧に会釈をする。
扉の前で、彼は一度だけ止まった。
「ルーヴェル様。前に、なぜ戦わないのかと伺いました」
「はい」
「今日、分かりました」
彼は言った。
「戦うと、負けたほうの数字が消えるからですね」
エリシアは、答えなかった。答えなかったのは、その通りだったからだ。
扉が閉まってから、彼女はしばらく卓の前に立っていた。三枚は、もう手元にない。あとは、あの人が二十二年ぶんの局に何と説明するかだけが残っている。
欄を一つ足す提案の要が、実は「削った日付と削った人の名前を残す欄」のほうだった、という回です。作るより、消されたときの跡を残すほうが難しい。言葉が中身より先に漏れるのが、次の回。王都の新聞の一段抜き、見出しは『監査局、判定に「差分」欄を検討』。ブックマークと評価は、欄が削られても残る側に数えておきます。




