第125話 二つの帳簿
実測は、二十日かかった。
クレア・ミルトンは、写字所の仕事を朝だけに減らし、午後をハルフェン本部の実務室で過ごした。報酬は受け取った。受け取らないと、これが仕事ではなくなる。仕事でなくなったものを、彼女はもう一つ抱えている。二つは抱えられない。
やることは、単純だった。監査局が公示した判定を百件選び、その一件ごとに、判定に用いられなかった数値を集める。集めるのにかかった時間を、砂時計で測る。
「十四分」
クレアが言うと、アルノーが書き取る。砂時計を返すのはヴァルドの役だった。数える者と書く者と測る者を分けたのはエリシアで、分けた理由は誰にも説明していない。
「次。西部第七記録所、第二十二項」
「……七分です。これは公表値がそのまま使えます」
「東部第一、第十七項」
「三十一分。港湾組合の月報を三年分めくる必要がありました」
二十日で、百件が終わった。平均、十二分。最も短いものが四分、最も長いものが四十六分。四十六分かかった一件は、参照先の公表値そのものが欠けていて、別の資料から推計したものだった。
「十二分」
アルノーが、集計表を見ながら言った。
「監査局は、年間およそ二百件の判定を出しています。二百件で、二千四百分。四十時間です」
「一人が、一年で五日ぶん」
クレアが言った。
「増えるのは、それだけです」
言ってから、彼女は自分の手元を見た。この二十日で気づいたことが、もう一つあった。彼女が二年、毎朝一人でやっていたのと同じ作業を、道具を揃えた部屋で、資料を横に積んで、訊けば答える相手がいる場所でやると、半分以下の時間で済む。
二年、彼女は一件に三十分かけていた。それは、彼女の能力が低いからではない。下宿の机には、港湾組合の月報が無かったからだ。
もし二年前、この部屋があったなら。クレアは、その仮定を最後まで考えるのをやめた。考えても、二年は戻らない。
それに、あの部屋があったら書き続けられたかというと、そうとも限らない。誰かに与えられた場所で書くものは、与えた人の顔色に少しずつ寄っていく。寄っていることに、書いている本人は最後まで気づかない。一人で書いていたから、一人ぶんのままで残った。そこだけは、二年をやり直したいとは思わなかった。
「ミルトン様」
エリシアが、実務室に入ってきた。二十日のあいだ、彼女は一度も進み具合を訊きに来なかった。
「集計、ありがとうございます」
「十二分でした」
「聞きました」
エリシアは、集計表を手に取って、下から上へ目を通した。数字を確かめるときは、いつも下から読む人だった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「この百件のうち、あなたが二年前から既に書いていらしたものは、何件ありましたか」
クレアは、答えを用意していなかった。数えていなかったからだ。
「……調べます」
調べるのに、半日かかった。結果は、六十八件だった。
「六十八」
エリシアは、その数を口の中で繰り返した。
「百件のうち六十八件は、既に書かれていた、ということです」
「はい」
「では、監査局が新しく書く必要があるのは、三十二件です」
クレアは、その言い方に、少し引っかかった。六十八という数が、いつの間にか差し引く側に置かれている。
「ルーヴェル様。それは、私の記録を監査局に使わせる、という意味になりませんか」
「なります」
「私の記録は、公印がありません」
「押しません」
エリシアは、はっきり言った。
「監査局が書くのは、監査局の判定書です。あなたの記録は、そこに至る材料の一つです。材料に公印は要りません」
「出典は」
「書きます。『出典:民間集計』と」
クレアは、その一行を頭の中で読んだ。民間集計。名前がない。彼女の名前も、記録の名前も、そこには出ない。二年ぶんの五冊が、『民間集計』という一語になる。
それでいい、と、彼女は思った。思ってから、少しだけ、そう思えていない自分にも気づいた。
「ミルトン様」
「はい」
「不服でしたら、そうおっしゃってください」
エリシアが言った。訊き方に、断らせない圧が無かった。
クレアは、顔を上げた。不服という語を先に置かれたので、否定する形でしか答えられなくなっている。
「……不服では、ありません」
「では、何ですか」
彼女は、しばらく言葉を探した。手元にある語は、どれも大きすぎるか、どれも足りなかった。
「妙な気持ちです」
それが、いちばん近かった。
「二年、名前を書かないと決めてきました。決めてきたのに、名前が出ないと聞くと、少しだけ、何か言いたくなります」
「言ってよいと思います」
「言うと、これは主張になります」
「ええ」
エリシアは頷いた。
「ですので、紙には書かず、ここで言ってください。私が覚えておきます」
クレアは、その提案の意味を、しばらく考えた。記録は残る。人の記憶は残らない。彼女が二年やってきたのは、残らないものを残る形にする仕事だ。その逆をやれ、と言われている。紙に載せず、人に預けろ、と。
「……ずるい言い方です」
「はい」
エリシアは、否定しなかった。
「ずるいのですが、これしか思いつきませんでした」
クレアは、少し笑った。二年ぶりに、声を出して笑った気がした。
その夜、彼女は下宿に帰って、五冊目を開いた。いつもどおり、前日の分を書く。判定と、判定に使われなかった数字。日付を右下に。責任者欄は、作らない。
書き終えてから、彼女は、余白に一行だけ足した。二年で初めて、罫の外へ書いた。
記録ではない。誰にも読ませない。ただ、書いておきたかった。
『十二分だった』
それだけ書いて、ノートを閉じた。
名前を書かないと決めてきた人が、名前が出ないと聞いて何か言いたくなる。人はそのくらい面倒で、その面倒を紙に載せずに人に預けるのが、この回のずるさです。次回、監査局長が刻限ちょうどに現れます。卓には三枚だけ。エリシアはその欄に、短い呼び名を付けます。ブックマークと評価は、二つの帳簿のどちらにも載らない一行として、作者が覚えておきます。




