第124話 記録を隣に置く
ハルフェン本部の実務室に、五日間、紙が広げられたままになっていた。
クレアの一覧が二十三件。リーデン町の一年半ぶんの月次。イルゼの学校の支援量記録。マリアンヌ・フェルゼンから届いた一年目の輸送実績と、その回答の写し。そして、監査局の判定公示が、この一年で二百十一件。長机では足りず、床に並べた束が二列できていた。
エリシアは、五日目の朝に、ヴァルドとアルノーを呼んだ。
「案がまとまりました」
「早いな」
ヴァルドが言った。
「五日は、早くありません」
「お前にしては早い、という意味だ」
エリシアは、机の中央に一枚を置いた。監査局の判定書の様式だった。上から、案件名、判定日、適用項番、判定、判定者の署名。
「この様式に、欄を一つ足します」
彼女は、判定と署名のあいだを指した。
「『この判定に用いなかった数値』という欄です」
アルノーが、身を乗り出した。
「用いなかった、というのは」
「判定の根拠にならなかった数字のことです。たとえばリーデン町なら、十六回の更新。西部第三記録所なら、実測との差の小ささ。イルゼの学校なら、改善状況の値」
「それは、判定を覆す材料になりませんか」
「なりません」
エリシアは、はっきり言った。
「覆す材料になる数字は、判定に用いられます。用いなかった数字というのは、定義上、判定を動かさない数字です」
ヴァルドが、腕を組んだ。
「では、書く意味は」
「三つあります」
彼女は指を立てた。
「一つ。二年後、五年後に判定を見直すとき、材料がそこにあります。いまは、判定に使った数字しか残らないので、見直しは一から数え直しになります」
「二つ」
「基準の効き目が測れます。第十七項の誤差記録欄が誤差を減らしているかどうかは、いまは誰にも分かりません。用いなかった数値を四十件ぶん並べれば、分かります」
「三つ」
エリシアは、指を三本目まで立ててから、少し置いた。
「外された側が、自分が何を持っていたかを、紙で受け取れます」
アルノーが、慎重に訊いた。
「……ですが、これは、監査局が書くのですね」
「はい」
「監査局が、自分の判定の弱いところを、自分で書くことになります」
「なりません」
エリシアは、また否定した。
「これは弱点ではありません。判定に使わなかった、という事実です。使わなかったことが弱点になるなら、基準のほうを直す話になります」
「あちらは、そう読まないのでは」
「読むでしょうね」
エリシアは、あっさり認めた。
「ですので、そこが交渉です」
ヴァルドが、初めて笑った。
「なるほどな。お前、五日で仕組みを作ったんじゃない。五日で、あの局長が呑める形を探していたのか」
「呑める形かどうかは、分かりません」
彼女は言った。
「ですが、呑めない形はいくつも潰しました」
彼女は、机の端に置いてあった紙を三枚、めくって見せた。三枚とも、案が書かれ、上から線が引かれている。線は太く、迷いなく引かれていた。
「一つ目。ハルフェンが並行して判定を出す。──却下です。判定が二つになると、どちらが正しいかの争いになります。争いは、勝ったほうだけを残します」
「二つ目。ミルトン様の記録に公印を押す。──却下です。押した瞬間、記録が主張になります。あの方が二年、責任者欄を作らずに守ってきたものを、こちらが壊すことになります」
「三つ目。王太子殿下に諮る。──却下です」
アルノーが、目を上げた。
「殿下は、通してくださるのでは」
「通ります」
エリシアは言った。
「通ったものは、殿下が代替わりしたときに消えます。私がこの秋の設計監査で不適合と申告した項と、同じ欠陥です」
彼女は、三枚を裏返して重ねた。
「残ったのが、この一つです。監査局の様式を、監査局自身が一欄広げる。判定は変わらない。基準も変わらない。書く人も変わりません。増えるのは、欄が一つと、書く手間だけです」
「手間が問題になりますね」
「なります。ですので、そこは数字で答えます」
エリシアは、アルノーのほうを向いた。
「一件あたり、何分増えるかを実測してください。ミルトン様の二年ぶんが材料になります。あの方は、判定に用いられなかった数字を、実際に毎朝書いていらっしゃる」
「実測、ですか」
「はい。手間が増えるという主張に、手間が増えないという主張で返しても、水掛け論になります。何分増えるかを出せば、その先の話ができます」
アルノーは、頷いて、書き取った。
ヴァルドが、窓辺へ寄った。
「一つ訊く」
「はい」
「これは、あの局長を負かす形か」
エリシアは、少し考えた。
「いいえ」
「では、何だ」
「あの方が二十二年やってきたことの、続きです」
彼女は言った。
「判断を人から外して、紙の上に移す。そこまでは終わりました。次は、紙に移らなかったものを、どこに置くかです」
ヴァルドは、しばらく外を見ていた。
「それを、あの男に言うのか」
「言いません」
「なぜだ」
「私が言うと、褒め言葉になります」
エリシアは、判定書の様式を綴りに挟んだ。
「褒められて動く人ではありません」
三枚の却下案に太い線を引く場面が、この回の本体です。仕組みは五日で作れます。相手が呑める形を探すのに、五日かかる。第1部から通して、エリシアの仕事はずっと後者でした。次回、砂時計で測る二十日間。監査局に足す手間を「何分」で答えます。




