第123話 差し戻される報告
テオドール・ザーレが監査局に入って、三年目の冬だった。
彼の仕事は、地方から上がってくる適合判定の下書きを検算することだった。監査官が現地で付けた項番を、提出された記録に当てて、もう一度数える。合っていれば通す。合っていなければ差し戻す。
地味な仕事だった。三年、彼は一度も現地に出ていない。現地に出るのは五年目からと決まっている。それまでは、他人が見てきた景色を数字で受け取り続ける。受け取り続けるうちに、数字の向こうに人がいることを忘れる者もいる。忘れなかった者だけが現地に出る、という話も聞いたことがあった。誰が言い出した話かは知らない。
その日、彼は西部第三記録所の綴りを検算していた。
第十七項、誤差記録欄なし。不適合。
項番は合っている。記録に誤差欄はない。判定は正しい。
通そうとして、彼は手を止めた。
同じ綴りの、別の頁に、参考として港湾組合の公表値が添付されていた。添付は義務ではない。前任の監査官が几帳面な人で、参考資料を付ける癖があった。
テオドールは、その公表値と、記録所の申告値を、なんとなく並べてみた。
差が、小さかった。
彼は、他の記録所の綴りを五つ持ってきて、同じことをした。五つとも、誤差記録欄がある。適合している。
適合している五つのほうが、申告値と公表値の差が大きかった。
テオドールは、しばらく机に座っていた。
これは、判定が間違っているという話ではない。彼はそこを混同しないだけの訓練を受けている。欄が無ければ不適合だ。それは変わらない。
ただ、誤差記録欄の目的は、誤差を小さくすることのはずだった。欄がある所のほうが誤差が大きいなら、その欄は、目的を果たしていない。
彼は、三日かけて、四十件を数え直した。夜半まで残った日が二日あった。
結果は、はっきりしていた。誤差記録欄の有無と、実際の誤差の大きさに、意味のある関係が見当たらない。むしろ、欄を作る手間が取れる規模の大きい記録所ほど、扱う量が多く、誤差も大きかった。
三日目の夜、彼は報告を書いた。
書き方には気をつけた。判定を覆せとは書かない。基準を変えろとも書かない。ただ、第十七項が想定していた効果が、四十件の実測では確認できない、と書いた。数字を全部付けた。誰でも同じ計算ができるようにした。
翌朝、上役に出した。昼過ぎに、返ってきた。
「ザーレ。これは報告ではない」
上役は、悪い人ではなかった。テオドールを可愛がっているほうだ。
「意見だ」
「意見のつもりはありません。四十件の実測です」
「実測から結論を引いている。結論を引いた時点で意見になる」
上役は、綴りを机に置いた。
「それに、この結論は基準の項目そのものを否定している。項目を否定するなら、正規の手続きがある。異議申し立ての期間に、外部から出すものだ」
「異議申し立ての期間は、去年の秋に終わっています」
「そうだ」
「終わったあとに見つかった不具合は、どこへ出せばいいのですか」
上役は、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが「どこにも出せない」だと知っていたからだ、とテオドールは思った。
「ザーレ。悪いことは言わん」
上役は、声を低くした。
「君はまだ三年目だ。この紙を出し続けると、君に『そういう人間だ』という札が付く。札が付いた人間の書いた数字は、正しくても読まれなくなる」
テオドールは、綴りを受け取った。自室に戻って、机に置いた。置いたまま、しばらく座っていた。
三年前、彼が監査局を志したのは、局長のエドガル・ヴェインの講話を聞いたからだった。判断を人から外して、紙の上に移す。そういう仕事だと聞いた。人の善意に頼らない仕組みを作る、と。
その仕組みが、いま、彼の紙を止めている。
彼は、綴りを抽斗にしまった。捨てなかった。捨てなかった理由を、彼は自分でうまく説明できなかった。
数え直した四十件は、彼の手の中でしか存在しない。抽斗を閉めれば、この局のどこにも無いのと同じだ。それでも捨てられなかったのは、たぶん、三日かけたからではない。数え終えたときに見えたものを、見なかったことにする方法を知らなかったからだ。
その週の終わり、彼は写字所に寄った。私用の書き写しを頼むためだ。実家に送る手紙が溜まっていて、自分で書くと日が暮れる。母は月に一度、必ず返事を寄越す。返事の来る手紙を書き続けるのは、案外、力の要ることだった。
窓際で、女が一人、契約書を写していた。速い。字がきれいだ。手首がほとんど動かず、指だけで送っている。
彼は、なんとなくその手元を見た。
罫の引き方に、見覚えがあった。監査局の書式だった。
「あの」
声をかけると、女は顔を上げた。三十半ばくらいの、痩せた人だった。
「その罫は」
女は、少しだけ手を止めた。
「癖です」
それだけ言って、また書き始めた。
テオドールは、それ以上訊かなかった。
訊かなかったが、帰り道でずっと、そのことを考えていた。監査局を辞めた者が、写字所で食う。よくある話だ。よくある話のはずなのに、あの罫の引き方だけが引っかかった。癖というのは、続けている人間にしか残らない。
差し戻した上役は悪人ではなく、テオドールを庇っています。この作品では、庇う人が壁になる。抽斗にしまって捨てない、というのがこの回の唯一の動きでした。ハルフェンの実務室に五日間、床まで紙が並ぶのが次の回です。出てくる案は、欄を一つ足すだけのもの。ブックマークと評価には差し戻し印を押しませんので、安心して出してください。




