第122話 支援という名の分類
イルゼは、その夜、寝つけなかった。
二年前のことは、あまり覚えていない。覚えているのは、教室に人が入ってきたときの静けさと、校舎裏の風の冷たさと、自分が何かを言ったことだけだ。
何を言ったかは、覚えている。
私は、その数字じゃない。
言ったあと、しばらく怖かった。大人にあんな言い方をしたのは初めてだった。翌週、順位の掲示が消えたとき、教師たちがざわついていた。誰も、彼女のせいだとは言わなかった。誰も、彼女のおかげだとも言わなかった。
彼女自身、自分のせいだとは思っていない。あんな一言で制度が変わるはずがない。たまたま、変わる時期だったのだと思っている。
ただ、変わったあとの二年は、思っていたのと違った。
石は投げられなくなった。それは本当に良かった。教師も増えた。教材も来た。冬に暖を取れるようになった。全部、良くなった。
良くなったのに、呼ばれ方だけが残った。
街の乾物屋で、去年、こう言われた。
──支援がいる学校の子だろう。おまけしとくよ。
悪気はなかった。むしろ親切だった。イルゼは礼を言って、豆を受け取って、帰り道でずっと、その親切について考えていた。
あの人は、私を助けようとした。助けようとした人に腹を立てるのは、たぶん間違っている。
でも、腹は立った。
朝、彼女は早く起きて、校舎の裏へ行った。二年前と同じ場所だ。風は、あのときほど冷たくない。
しばらくして、足音がした。
エリシア・フォン・ルーヴェルが、一人で来た。宿から歩いてきたのだろう。裾が土で汚れている。
「早いですね」
「そっちも」
イルゼは、壁にもたれたまま言った。
「昨日の続きを、聞かせてください」
エリシアが言った。
「続き」
「月に何度か、言われる。去年の春から。ほかにありますか」
イルゼは、少し考えた。
「……働きに行った子が、戻ってきました」
「戻った」
「三つ上の子です。冬に街の店に入って、春に戻ってきました。理由は言いませんでした。でも、みんな分かってます」
「分かる、というのは」
「うちの学校の子は、雇うと補助が出るんです」
イルゼは、地面を見たまま言った。爪先で、小石を一つ転がしている。
「支援対象だから。だから、雇われます。でも、補助が切れる時期になると、戻されます」
エリシアは、そこで初めて、口を閉じた。
補助の制度は、彼女が設計したものではない。教育分野の支援指標が始まったあと、王宮の別の部局が、指標を参照して作ったものだ。指標そのものは正しい。補助の設計も、意図としては正しい。
ただ、二つを組み合わせると、こうなる。
「その子の名前は」
「言いません」
イルゼは、はっきり言った。
「名前を出したら、その子が『そういう例』になります。私みたいに」
エリシアは、その言葉を受けて、しばらく黙っていた。
「私みたいに、というのは」
「二年前、私が言ったことは、たぶん、どこかに書いてあります」
イルゼが言った。
「王宮のどこかで、こういう例があった、って。それで制度が変わったなら、それでいいです。でも、その紙のどこにも、私の名前はないでしょう」
「ありません」
エリシアは、正直に答えた。
「あの日の記録は、『生徒からの申し出により』としか書いていません」
「じゃあ、私は」
イルゼは、顔を上げた。
「あの数字じゃない、って言ったのに、結局『生徒』っていう数字になっただけです」
風が、校舎の角を回って抜けた。
エリシアは、答えを持っていなかった。
二年前、彼女はこの子の言葉を持ち帰り、制度を変えた。変えたことは正しかった。順位は人を傷つける。支援指標のほうが、はるかにましだ。
だが、彼女はこの子の言葉を「材料」として持ち帰り、この子自身は置いてきた。置いてきたことに、いままで気づいていなかった。
「イルゼ」
「はい」
「一つ、提案をしてもよろしいですか」
「提案」
「はい。断ってくださって構いません」
エリシアは、上着の内から、白紙の綴りを出した。宿で買った、安い紙のものだった。
「あなたが、自分で書いてください」
イルゼは、その綴りを見た。
「何を」
「言われたことです。いつ、どこで、誰に、どう言われたか。腹が立ったかどうかは書かなくて構いません。事実だけで」
「……それ、何になるんですか」
昨日と同じ問いだった。
エリシアは、昨日と同じようには答えなかった。
「あなたのものになります」
イルゼは、綴りを受け取らなかった。腕を組んだまま、しばらくエリシアを見ていた。
「大人が、子どもに書かせるやつですよね。それ」
「そうですね」
「書いたら、大人が持っていくやつですよね」
「持っていきません」
「どうやって信じるんですか」
鋭い問いだった。
エリシアは、綴りの一枚目を開いて、いちばん上に欄を作った。線を引き、そこに書く。
『責任者:イルゼ』
それから、綴りを閉じて、少女のほうへ差し出した。
「この欄に、私の名前が書けない形にしました」
イルゼは、その一行を見た。
自分の名前が、紙のいちばん上にあるのを見たのは、初めてだった。
「大人が、子どもに書かせるやつですよね」は、この回を書きながら作者自身に刺さった台詞です。答えになっているかどうかは、書いた欄の位置で判断してください。次回、監査局の中へ。若い監査官が四十件を数え直して報告を書き、その日の昼過ぎに差し戻されます。ブックマークと評価は、少女の名前の欄の下に一行、事実だけで結構です。




