第121話 名前のない少女
リーデン町までは四日かかる。
二日目の宿場で、クレアが一覧をめくった。宿の卓は傾いていて、書くときは綴りの下に手を差し込む必要があった。
「ここから半日のところに、もう一つあります」
「学校ですか」
「はい。判定ではなく、指標のほうです。教育分野の支援指標で、支援対象に区分された学校が、この街道沿いに三つ。そのうち一つは、二年前にルーヴェル様が行かれたところです」
エリシアは、その地名を見た。
覚えている。忘れようがない。
二年前、公開枠組みが教育分野に入った直後、学校ごとの数値が公表され、王都の新聞がそれを順位にして刷った。順位の下のほうにあった学校で、子どもが石を投げられ、教師が辞め、そして──放課後の校舎裏で、一人の少女が彼女に言った。
私は、その数字じゃない。
その言葉で、制度が変わった。順位をやめ、比較をやめ、個人評価をやめ、支援量と改善状況だけを見る形に切り替えた。世論は割れたが、大きな炎上にはならなかった。
あれから二年、エリシアはその学校に行っていない。
「行きます」
彼女は言った。
半日の遠回りだった。
学校は、記憶より小さく見えた。壁の塗り直しがされている。窓枠は新しい。支援指標に切り替わってから、資源配分は改善している。数字の上では、はっきり良くなっていた。
校長は、エリシアの顔を見て、慌てて背を伸ばした。
「ご視察でしょうか」
「いいえ。通りがかりです」
「……はあ」
「支援量の記録を、見せていただけますか。公表されている分で結構です」
記録は、きちんと付けられていた。二年で、教員が二人増えている。教材の配分が増え、欠席率が下がっている。改善状況の欄には、正の値が並んでいた。
エリシアは、その欄を長く見た。
「良い数字です」
校長は、ほっとした顔をした。
「それで、区分は」
「支援対象のままです」
校長が言った。
「改善しても、区分は変わりません。基準の水準に届くまでは、支援対象です」
「届く見込みは」
「……あと六年か、七年かと」
エリシアは、頷いた。
制度としては、正しい。改善したから支援を切る、というのは最悪の設計だ。届くまで支援を続ける。それでいい。この形にしたのは彼女で、いま聞いても直すところは見当たらない。
ただ、六年か七年のあいだ、この学校は「支援対象の学校」と呼ばれ続ける。その呼び名が、順位と何が違うのかを、彼女は考えた。
考えている途中で、廊下の向こうから、生徒が二人歩いてきた。片方が、途中で足を止めた。
エリシアも、止まった。
背が伸びていた。二年前は俯いていた子だ。いまは、俯いていない。ただ、まっすぐこちらを見て、動かなかった。
「……あなたは」
少女が言った。言ってから、言い直した。
「二年前に、来た人ですね」
「はい」
エリシアは答えた。
「あのとき、あなたのお名前を伺いませんでした」
少女は、少し黙った。それから言った。
「イルゼです」
「イルゼ様」
「様は、いりません」
彼女は、ぶっきらぼうに言った。ぶっきらぼうだが、目は逸らさない。
「あのあと、学校の呼ばれ方が変わったの、知ってますか」
「順位が廃止されました」
「そうじゃなくて」
イルゼは、廊下の壁を指した。掲示が貼ってある。支援配分の一覧だった。紙は新しく、糊のあとがまだ湿って見えた。
「前は『順位が下の学校』でした。今は『支援対象の学校』です。前より、たぶん親切です」
「はい」
「でも、街の人は、こう言います」
彼女は、感情を込めずに言った。
「──あそこは、まだ支援がいる学校だから、と」
エリシアは、その言葉を、そのまま受け取った。
反論する材料は、いくつもあった。支援対象という区分は差別のためではない。資源を配るために要る。区分がなければ、配れない。全部、正しい。
正しい説明をここでするのは、二年前と同じ間違いだった。
「イルゼ」
「はい」
「その言い方をされるのは、いつからですか」
少女は、初めて少し目を丸くした。訊かれると思っていなかったのだろう。
「……去年の春くらいから」
「毎日ですか」
「毎日ではないです。月に何度か。街に買いに行ったとき」
「記録は、ありますか」
「記録」
イルゼが、眉を寄せた。
「そんなの、誰が取るんですか」
エリシアは、答えなかった。
答えは、はっきりしている。誰も取っていない。取る欄が、どこにもないからだ。
支援量は測れる。改善状況も測れる。区分されたことで街の人が何と言うようになったかは、測る欄がない。欄がないものは、制度の上では起きていない。
「クレア様」
エリシアは、後ろに立っていた女に声をかけた。
「はい」
「一覧に、追加をお願いできますか」
クレアは、すでに綴りを開いて、ペンを構えていた。
「地名は」
「この学校です。その後の欄には──」
エリシアは、少し言葉を探した。
「『改善している。呼ばれ方は変わっていない』と」
クレアのペンが、動いた。紙を擦る音が、廊下に短く響いた。
イルゼは、その様子を見ていた。それから、訊いた。
「それ、何になるんですか」
「何にもなりません」
エリシアは答えた。
「今は」
名前を訊かなかった、というのは第1部の作者の落ち度でもあります。この回でようやく訊きました。良くなった数字の隣に測る欄のないものが残る話は、監査局の判定とまったく同じ形をしています。次回、イルゼの側から。乾物屋で言われた「おまけしとくよ」が、なぜ腹立たしかったのか。




