第119話 公印のない正しさ
「隣に置く、というのは」
クレア・ミルトンは、慎重に訊いた。訊きながら言葉の意味を二通りに割り、どちらで来ているのかを測っていた。
「監査局の判定書の隣に、私の記録を並べる、ということでしょうか」
「はい」
「それは、無理です」
即答だった。二年、毎朝考えてきた者の速さだった。
「私の記録には、公印がありません。公印がないものは、制度の中では存在しないのと同じです。並べれば、片方だけが読まれます」
「並べ方を変えても」
「変えても同じです」
クレアは、寝台の端に座ったまま、膝の上で手を組んだ。指先が、少し冷えている。
「ルーヴェル様。私は、二年前に一度、それを試みました」
エリシアは黙って聞いていた。遮らずに聞く相手に、クレアは慣れていなかった。
「監査局にいた頃です。西部の記録所について、公式の報告と、私が現地で見た数字が食い違いました。私は両方を並べた報告を書きました。判定と、判定に使われなかった数字を、同じ紙に」
「差し戻されたのですね」
「はい。三度」
クレアは、そのときのことを、いまでもはっきり覚えている。三度目に差し戻したのは、悪い上司ではなかった。むしろ、彼女を庇おうとしていた。彼は紙を返しながら、こう言った。
──クレア、これは報告ではなく、意見だ。意見は、書いた者が責任を負う。君はまだ若い。
「私を守るために、差し戻されました」
クレアは言った。庇われたとは言わなかった。守るために、と言った。二年かけてそこだけは言い方を変えていない。
「そのときに分かりました。並べた瞬間、片方が『意見』になるのです。公印のあるほうが判定で、無いほうが意見です。意見は、誰かの主張です。主張は、主張した人間ごと処理されます」
「では、公印を付ければよいのですね」
「付けられません」
「付けられます」
エリシアが言った。付けられます、と言い切る声に、力みは無かった。
クレアは、顔を上げた。この二年、そこを言い切った人間はいない。
「監査局の公印は付けられません。ですが、ハルフェン本部の公印なら、明日にでも押せます」
クレアは、息を止めた。押せますではなく、明日にでもと言った。日付まで用意して来た言い方だった。
「……それは」
言葉を選ぶのに時間をかけた。断る言葉より先に、断る理由のほうを組み立てていた。
「私の記録が、ハルフェン本部の主張になる、ということです」
「そうです」
「監査局とハルフェンの、どちらが正しいかという話になります」
「なります」
「それでは、意味がありません」
クレアは、初めて声を強めた。
「私は、どちらが正しいかを書いてきたのではありません。判定に使われなかった数字が、消えないようにしてきただけです。ハルフェンの公印が押された途端、あれは論争の材料になります。論争は、どちらかが勝って終わります。勝ったほうの数字だけが残って、負けたほうは──」
彼女は、そこで言葉を切った。消える、と言おうとして、やめた。彼女がこの二年、消えないようにしてきたものが、まさにそれだったからだ。
エリシアは、しばらく何も言わなかった。それから、部屋に一つしかない椅子を引いて、初めて腰を下ろした。椅子は、座ると小さく鳴った。
「ミルトン様。私は、いま二つ間違えました」
クレアが、目を見開いた。役職のある人間が間違えたと先に言うところを、彼女は見たことがなかった。
「一つ。並べれば足りると思っていました。並べた時点で片方が意見になる、という指摘は正しい。私はそこを見ていませんでした」
「……いえ」
「二つ。公印で解けると思いました。公印は、記録を守る道具ではなく、記録を誰かのものにする道具です。あなたが二年、責任者欄を作らなかった理由と、真正面から反対のことを言いました」
エリシアは、膝の上で指を組んだ。
「申し訳ありません」
クレアは、返事ができなかった。この人は、こういう人だっただろうか、と考えた。二年前、馬車の中で会った女性は、もっと隙がなかった。答えを渡さない人だった。訊いても、答えの代わりに順番を渡してくる人だった。
いまも、たぶん同じ人だ。ただ、間違えたときに間違えたと言う。それだけが増えている。
二年で人が増やせるものは、そう多くない。たいていは減っていく。減らずに一つ増えているというのは、この人が二年のあいだ、どこかで同じ痛みを通ったということだ。
「では」
クレアは言葉を確かめながら訊いた。この人が持ち帰るものが何なのかを先に知っておきたかった。
「どうなさいますか」
「考え直します」
「時間がかかります」
「かかります。ですが、急いで作った仕組みは、たいてい、また同じことを起こします」
エリシアは立ち上がった。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「あなたの記録は、何のためにありますか」
クレアは、その問いに、すぐには答えなかった。二年、誰にも訊かれなかった問いだった。自分でも、はっきり言葉にしたことがない。窓の外が、少しずつ明るくなっている。
「……いつか、誰かが確かめ直すときのためです」
彼女は言った。
「判定が間違っていたと分かる日が来るかどうかは、私には分かりません。来ないかもしれません。ですが、来たときに、確かめる材料が何も残っていないのは、困ります」
「困るのは、誰ですか」
「私ではありません」
クレアは答えた。
「そのとき、判定で外された側にいる人です」
エリシアは、頷いた。それから、扉のほうへ歩いて、一度だけ振り返った。
「ミルトン様。私は、あなたの記録に公印を押しません」
「はい」
「代わりに、押さなくても消えない形を考えます」
「そんな形が、ありますか」
「分かりません」
エリシアは、正直に言った。
「ですが、二年ぶんの材料が、いま目の前にあります」
主人公に「私は二つ間違えました」と言わせる回です。第1部のエリシアなら、間違いを認める前に別の順番を渡していたでしょう。増えたのは、それ一つ。次回、七日後の日暮れ。布に包んだ五冊を抱えて、今度はクレアのほうがハルフェンの門をくぐります。ブックマークと評価は、公印のない紙のまま、消えないところに置いておきます。




