第118話 制度外記録:王国
クレア・ミルトンの下宿は、王都の北の外れにある。
三階建ての、階段が軋む建物の、二階の奥。窓は一つ。冬は寒い。家賃は安い。それだけの理由でここに住んで、五年になる。
部屋には、机が一つと、寝台が一つと、棚が三つある。棚には、ノートが並んでいる。
最初の一冊は、二年前の秋に開いた。表紙に、彼女は自分の字で書いた。
『制度外記録:王国』
いま、その並びは五冊目になっている。背表紙の高さは五冊とも同じで、並べた順に少しずつ紙が黄ばんでいた。
クレアは、朝の五時に起きる。六時までに前日の分を書く。それから、王都の東にある写字所へ出て、日が暮れるまで書き写しの仕事をする。契約書、遺言、商会の帳簿の控え。字がきれいで速い者は、それだけで食えた。指の関節が太くなったのは、この五年のことだ。
監査局を辞めてから、彼女は一度も役所に勤めていない。誘いはあった。三度あった。三度とも断った。断る理由を訊かれるたびに、彼女は同じことを答えた。
「中にいると、書けないものがあります」
その答えで納得した相手は、一人もいなかった。
この日の朝も、いつもどおりだった。
クレアは机に向かい、五冊目を開き、前日に集めた分を書き写した。監査局の判定公示は、王都の三か所に貼り出される。彼女は写字所へ行く道でその一つを通る。通りがかりに読み、頭に入れ、朝に書く。読むのに立ち止まらない。立ち止まる者は覚えられる。
書くのは、判定そのものではない。判定と、判定に使われた数字と、その数字の別の読み方だ。
『第十七項不適合。西部第三記録所。誤差記録欄なし』
『同所、申告値と港湾組合公表実測値の差、直近十二か月平均で〇・八。適合五所の平均一・四』
書き終えて、日付を右下に入れる。責任者欄は、作らない。
作らないと決めたのは、二年前だ。この記録には、公印がない。公印がないものに責任者の名を書くと、それは主張になる。主張は反論される。反論されると、記録は論争の材料になり、論争が終わると捨てられる。
名前がなければ、誰も反論しない。ただ、残る。
この理屈を、彼女は誰にも説明したことがない。説明する相手がいなかったし、説明すれば、それも一つの主張になる。二年かけて、彼女は自分の考えを人に渡さない練習だけが上手くなった。
六時十分。彼女はノートを閉じ、棚に戻す。
扉を叩く音がしたのは、そのときだった。クレアは、動かなかった。この時間に来る客はいない。家主は昼にしか来ない。
二度目の音。それから、女性の声がした。
「クレア・ミルトン様。エリシア・フォン・ルーヴェルです」
クレアは、扉のほうを見たまま、しばらく座っていた。息が浅くなっているのが、自分で分かった。
彼女は立ち上がり、上着の襟を直し、それから棚の五冊目に一度だけ触れて、扉を開けた。
廊下は暗い。窓のない廊下で、エリシアは一人で立っていた。従者もいない。手には何も持っていない。
二年ぶりだった。
「お久しぶりです」
エリシアが言った。
「……はい」
クレアは、それしか言えなかった。二年ぶんの言葉が喉のところで詰まって、どれから出せばいいのかが分からなかった。
「早い時間に、申し訳ありません。この時間しか、いらっしゃらないと伺いましたので」
「誰から」
「郵便の便からです。一年、同じ便に紙束を預けている方がいる、と」
クレアは、目を閉じた。当然だ、と思った。一年も同じ手を使えば、どこかで漏れる。むしろ、一年もったことのほうが不思議だった。
「……お入りください」
部屋は狭い。椅子は一つしかない。クレアが椅子を勧め、自分は寝台の端に座った。
エリシアは座らなかった。棚の前に立っていた。
「五冊」
「はい」
「二年ですね」
「二年です」
エリシアは、背表紙を左から右へ、目で追った。一冊ずつ、時間をかけて。表紙の字は、五冊とも同じ大きさで揃っていた。
「何を書いていらっしゃいますか」
「消えるものを」
クレアは答えた。
「判定は残ります。判定に使われなかった数字は、残りません。誰も嘘をついていないのに、二年経つと、判定だけが事実になっています」
「それを、一年前から監査局へ送っていらっしゃる」
「送っていません」
クレアは、はっきり言った。
「監査局へ送れば、意見です。意見は処理されます。処理されると、処理したという記録だけが残って、中身は消えます」
「では、なぜ港湾組合の便に」
「あそこは、処理しないからです」
クレアは、少し口の端を動かした。笑ったというより、二年ぶんの何かが緩んだ動きだった。
「組合は、届いた紙を捨てません。誰宛か分からないものは、とりあえず回します。回った先で、誰かが読むかもしれない。読まなくても、捨てられない」
「そこに賭けていらしたのですね」
「賭けというほどのものでは」
「一年です」
エリシアは言った。
「一年、名前を書かずに、確かめられる形で書き続けるのは、賭けです」
クレアは、答えなかった。エリシアは棚から離れ、初めてクレアのほうを向いた。
「ミルトン様。用件を申し上げます」
「はい」
「一年ぶんの続きを、書く場所があります」
クレアは、顔を上げた。断る言葉のほうが、先に用意できていた。
「制度の中に入れという話でしたら、お断りします」
「入れとは申しません」
エリシアは言った。
「隣に置きたいのです」
朝五時に起きて一時間書き、日暮れまで写字所で写す。この生活の描写に、作者は評価も同情も足していません。足すと、彼女の記録が「意見」になるからです。次回、「隣に置きたい」への返事は即答の「無理です」。理由は公印。ブックマークと評価は、『制度外記録』の一頁として、名前なしで受け取ります。




