第117話 差出人のない記録
冬に入って最初の週、アルノー・リヒターの机に、綴じられていない紙束が届いた。
封筒はなかった。ほかの書類に挟まっていた、という言い方が近い。港湾組合から回ってきた郵便のあいだに、宛名のない三十枚が混ざっていた。
差出人の欄がない。公印もない。日付だけが各葉の右下に小さく入っている。
アルノーは一枚目を読んで、二枚目を読んで、それから椅子に座り直した。紙は上等ではない。写字所で使う安い紙だ。ただし裁ちは揃っていて、三十枚の端がぴたりと重なった。
中身は、監査局が基準の成案からこの一年に出した適合判定の一覧だった。ただの一覧ではない。判定ごとに判定の日付と根拠とされた項番が並び、そして──判定の隣に、同じ案件について別の数字が書き添えてあった。
たとえば、ある地方の記録所が第十七項の誤差記録で不適合とされた案件。その隣に、こう書いてある。
『同記録所、誤差記録欄なし。ただし同期間の申告値と実測値の差は、他の適合記録所五件の平均より小さい。出典:港湾組合公表分より算出』
誤差の欄が無い記録所のほうが、誤差が小さかった、ということだった。
アルノーは、その一行を三度読んだ。
書いてあるのは、判定が間違っているという主張ではない。判定は正しい。欄が無いのだから不適合だ。ただ、欄が無いことと誤差が大きいことは別のことだと書いてある。それだけだ。書き手はそこから先へ一歩も出ていない。出ないことに、明らかに神経を使っている。
三十枚のうち、こういう書き添えがあるのは十四件だった。残る十六件はただの写しで、判定と項番しか載っていない。書き添えるだけの材料が揃わなかったのだろうと、アルノーは思った。
「これは」
彼は、書類を持ってエリシアの執務室へ行った。
エリシアは一枚目から順に読み、途中で速度を落とし、最後の一枚を読み終えてから、束を机に置いた。
「どこから来ましたか」
「分かりません。港湾組合の郵便に混ざっていました。組合に問い合わせましたが、把握していないと」
「差出人なし、公印なし、日付だけ」
「はい」
エリシアは、右下の日付を確かめた。いちばん古いものは一年近く前。いちばん新しいものは、先月だ。
「一年、書き続けている人がいます」
「怪文書の類ではないと」
「怪文書は、こう書きません」
彼女は、十四件のうちの一つを指した。
「ここを見てください。『出典:港湾組合公表分より算出』とあります。公表されている数字だけを使って、誰でも同じ計算ができるようにしてある」
「……確かめられる形にしてある、ということですか」
「そうです。相手に反論の材料を渡しています」
エリシアは、次の頁をめくった。
「怪文書は、確かめられない形で書きます。確かめられたら困るからです。これは逆です。確かめてくださいと書いてある」
アルノーは、束を横から覗き込んだ。
「では、誰が」
「書式を見てください」
エリシアが言った。
アルノーは、言われて初めて、書式そのものを見た。罫の引き方、項番の置き方、出典の書き添え方、左の余白の広さ、数字の桁を揃える位置──どれも、監査局の書式だった。
いや──正確には、監査局の書式に似ていて、一つだけ違った。
いちばん上の、責任者欄が、無い。
「……監査局の人間ですか」
「監査局の書式を、身体で覚えている人です」
エリシアは言った。
「そして、責任者欄を書かないと決めている人です」
彼女は、束の最後の一枚をもう一度見た。その裏に、鉛筆でごく薄く、一行だけ書いてある。印刷ではない。書き手が自分で入れたものだ。
『これは仕事ではありません』
エリシアは、その一行を長く見ていた。
その言い回しを、彼女は覚えている。一年前ではない。もっと前だ。
まだ王宮を出て間もない頃だ。監査局の若い監査官が人目を避けるように馬車へ乗り込んできて、正しさが届かない場所について話した。話しながら、その人は膝の上で指を組み替え続けていた。そのあと彼女は昇進を断り、王国の外に立つと決めた。
あのとき、エリシアは彼女に何も約束しなかった。約束の代わりに、こう言っただけだ。
──記録は、必ず、誰かが拾います。
「アルノー」
「はい」
「港湾組合に、もう一度問い合わせてください。組合ではなく、組合の郵便を運んでいる便に」
「便に、ですか」
「差出人のない紙束を、一年、同じ便に混ぜられる人は限られます。混ぜている場所が分かれば、書いている場所も近いはずです」
アルノーは頷いて、出ていこうとして、扉の前で止まった。
「ルーヴェル様。仮に見つかったとして、この方は、名乗りたくないのではありませんか」
エリシアは、束の上に手を置いた。紙は冷えていて、指の下でわずかに反っていた。
「そうでしょうね」
「では」
「名乗ってくださいとは言いません」
彼女は言った。
「一年ぶんの続きを、書く場所がありますと言いに行きます」
アルノーが出ていったあと、エリシアは束を揃え直した。三十枚の角が、また綺麗に重なった。裁ちを揃える人間は、揃えないと落ち着かない人間だ。二年前、同じ癖の持ち主に会っている。
怪文書と記録の違いは、確かめられる形で書いてあるかどうかだけです。相手に反論の材料を渡す文書ほど、実は強い。舞台は王都の北の外れ、階段の軋む下宿の二階へ。棚に五冊、表紙は『制度外記録:王国』。朝六時十分、その扉が叩かれます。




