第116話 私は基準を満たしません
設計監査は、秋の初めに行われ、三日かかった。一日目は書式。二日目は運用。三日目に、設計主体そのものを見る。
三日目の朝、ハルフェン本部の大会議室には、監査局から五人、ハルフェンから七人が入った。卓は、やはり同じ高さで向かい合っていた。窓を開けると港の音が入るので、この日は閉めてある。
「では、三つ目の審査に入ります」
エドガル・ヴェインが言った。三日目にして、声の調子は一日目の朝とまったく同じだった。疲れていないのではなく、疲れを声に乗せない習慣がついている人の同じさだった。
「設計主体であるハルフェン本部が、適合基準の外に置かれていないか。ルーヴェル様、ご説明を」
エリシアは立たなかった。この場では立たないのが作法だと、二日かけて理解していた。
「先に、結論から申し上げます」
彼女は言った。
「ハルフェン本部は、適合基準を満たしていません」
誰も、すぐには紙をめくらなかった。アルノーが横で息を呑むのが分かった。二日間、彼らは満たしている項を数え上げる準備をしてきた。四十七項のうち四十一項は満たせる。残り六項も、説明で押し返せる見込みがあった。手元の綴りには、その順番まで付箋で刻んである。
「ご説明を」
エドガルの声は変わらなかった。
「第七項、収集した記録の第三者検証。ハルフェン本部が集計した港湾分を検証しているのは、ハルフェン本部の別部署です。組織として独立していません。不適合です」
「はい」
「第十九項、判断根拠の遡及可能性。二年前の設計変更のうち、三件は口頭で決めています。議事の記録がありません。不適合です」
監査官の一人が、手元をめくる音がした。ハルフェン側が用意した反論の順番と、読み上げられている順番が合っていない。合わないことに、まだ誰も追いつけていなかった。
「第三十三項、設計主体の交代可能性。公開枠組みの設計判断のうち、およそ二割は、私個人の判断で行われています。私が明日いなくなった場合、その二割は再現できません。不適合です」
エリシアは、そこで一度、間を置いた。
「以上、三項。いずれも、監査局のご指摘を待たずに、こちらで洗い出したものです」
彼女は、卓の上に綴りを置いた。付箋は一枚も挟んでいない。挟めば、どこを先に読ませたいかを決めたことになる。
「不適合の一覧と、それぞれについて、いつ・誰の判断で・なぜそうなったかを付けてあります」
エドガルは、綴りを受け取った。開いて、しばらく読んだ。読む速度が速い。二十二年、こういう紙を読んできた男の速度だった。頁を戻すのは一度だけで、あとはまっすぐ進んだ。
「第三十三項の不適合を、ご自分から申告されるのは」
彼は顔を上げた。読み終えた頁に、指を挟んだままだった。
「珍しいことです」
「自分から言わなければ、誰にも見つけられない項ですので」
「そうですね」
エドガルは、少しだけ間を置いた。
「見つけられないものを申告する義務は、基準に書いてありません」
「書いてありません」
エリシアは認めた。認めるのに、間はいらなかった。
「ですので、これは義務ではなく、設計の話として申し上げます」
彼女は卓の上で、指を一つ立てた。
「私は、公開枠組みを『私がいなくても回る形』にしたつもりでした。実際、日々の運用は回っています。ですが二割が回っていなかった。それは私の設計の欠陥です」
二本目の指。
「この欠陥は、監査局の基準に照らして初めて見えました。基準がなければ、私は気づかないまま設計を続けていました」
三本目。
「ですので、基準を曲げてくださいとは申し上げません。私は基準を満たしません。満たしていないという判定を、そのまま出していただきたい」
エドガルは、綴りを閉じた。
「代わりに、何を求められますか」
「一つだけ」
エリシアは言った。
「基準を満たさない主体が、満たさないまま何を続けていたかを、判定と同じ紙に書いてください」
部屋の空気が、少し動いた。誰かが椅子を鳴らし、すぐに静かになった。
「不適合の理由は、いま書式にあります。適合の項も書式にあります。ですが、満たさなかったあいだに何が起きていたかは、どこにも残りません」
彼女は続けた。
「リーデン町は十一項に落ちました。同時に十六回、続けていました。判定書には落ちた十一項しか載りません。十六は、どこにも載らない」
「それは、判定ではありません」
エドガルが言った。
「事実です」
「はい。判定ではなく、事実です。判定の隣に置いていただきたい」
長い沈黙があった。監査官の一人が口を開きかけて、局長を見て、閉じた。
「持ち帰ります」
エドガルは言った。
「即答はしません。それは基準の運用ではなく、基準そのものの形を変える話ですので」
「承知しました」
「ただ」
彼は綴りを鞄に入れながら、手を止めた。鞄の口を閉じる前に止めたので、留め金の音が半分だけ鳴った。
「一つ伺っても」
「どうぞ」
「なぜ、戦わないのですか」
その問いは、この三日間で彼が初めて発した、監査ではない質問だった。
エリシアは、少し考えてから答えた。
「戦って勝てば、次に基準を守らせる相手が、私を先例に使います」
それに、この場で戦うなら、勝ち方は一つしかない。上から通してもらうことだ。その一本の線を使わないと決めた日から、彼女は手札を一枚減らしたまま仕事をしている。減らしたぶんが何に化けたのかは、まだ数えていない。
「……そうですね」
「それに」
彼女は、卓に置いたままの綴りの表紙に、指を置いた。
「ヴェイン様が正しいのは、本当のことです。正しいことに正しさで反論すると、どちらかが嘘をつくことになります」
エドガルは、返事をしなかった。彼は会釈をして、部屋を出ていった。扉の閉まる音は、初めて来た日と同じくらい丁寧だった。
三日間の審査が終わり、人が引いた会議室で、ヴァルド・グレインが窓辺に立っていた。閉めてあった窓を、勝手に開けている。
「負けたのか、あれは」
「負けました」
エリシアは答えた。負けましたという言葉に、力の抜けたところが無かった。
「三項、不適合が確定します」
「顔が負けた顔じゃないな」
「勝ち方が分かりましたので」
彼女は、卓の上の水差しを片づけながら言った。
「判定の隣に、事実を置く。それが通れば、基準は変わりません。変わらないまま、拾えるものが増えます」
「通ると思うか」
「思いません」
あっさりした返事だった。通らないと分かっていて出す案があることを、ヴァルドはこの二年で見慣れている。
「ですので、通らなかったときのために、もう一つ要ります」
「何が」
「監査局の外側で、同じ形の記録を作っている人が」
エリシアは、窓の外を見た。港では、荷役が動いている。
「心当たりが、一人だけあります」
四十一項は満たせる、と部下が付箋を刻んでいた綴りを、本人が最初の一言で無駄にする回です。負けを先に取りに行くのが、この人の勝ち方でした。次回、冬の入口。差出人も公印もない三十枚の紙束が、港湾組合の郵便に混ざって届きます。ブックマークと評価は、監査の綴りにこちらから一頁足すつもりで、遠慮なく頂きます。




