第114話 正しさに賭けた男
エドガル・ヴェインは、二十二年前まで、ただの穀物商だった。
王都から南へ二日、街道沿いの中継地で、父の代から続く小さな商いをしていた。倉が三つ。荷馬が六頭。扱うのは麦と豆と、季節によって塩。派手ではないが、潰れる商いでもなかった。
潰れた。
理由は、いまでも一言では言えない。
その年、王国は南部の飢饉に対して救援穀物を出した。出したこと自体は正しかった。問題は、どの中継地に、どれだけ、いつ置くかを決める基準が無かったことだ。基準が無いので、決めたのは人だった。人が決めるとき、決め方は毎回変わる。
エドガルの倉には、三度、通達が来た。一度目、救援分を保管せよ。二度目、保管分を南へ回せ。三度目、回した分は買い上げの対象外とする。
三度目の理由は、書式が違ったからだった。
彼は正しく保管し、正しく回し、正しく記録した。記録した書式が、二度目の通達で指定されたものと違っていた。二度目の通達には書式の指定が無かったので、彼は一度目の書式で書いた。それが、対象外の理由だった。
異議を出した。三度出した。三度とも、担当が違った。
三人目の担当は、悪い人間ではなかった。むしろ気の毒がってくれた。茶を出し、話を最後まで聞き、それから言った。
「基準が無いので、私には覆せません」
倉を二つ売った。荷馬を四頭手放した。それでも足りず、翌年、店を畳んだ。
父は、その冬に死んだ。死因は肺の病で、店とは関係がない。関係がないと、エドガルは自分に何度も言い聞かせた。言い聞かせる回数が減ったのは、十年以上あとのことだ。
彼が監査局の下役に入ったのは、その二年後だった。恨みからではない。恨む相手がいなかったからだ。悪人はどこにもいなかった。あったのは、基準の不在だけだった。
二十二年、彼はそれだけをやってきた。
書式を統一する。頻度を決める。誰が責任を負うかを欄にする。判断を人から外して、紙の上に移す。地味で、恨まれ、感謝されない仕事だった。それでよかった。彼は感謝を求めていない。
執務室の窓から、監査局の中庭が見える。植木は低く刈られていて、季節がほとんど分からない。
エドガルは、リーデン町の記録をもう一度開いていた。一年半で十六回。欠けたのは大雪の二回。
この記録が良いものであることを、彼は分かっている。分からないほど愚かではない。
だが、彼が二十二年かけて作ったものは、「良い記録を良いと判断する仕組み」ではない。「誰が判断しても同じ答えになる仕組み」だ。この二つは、しばしば違う答えを出す。
良いと判断できるなら、判断する者が必要になる。判断する者が必要なら、判断する者の善意が制度の前提になる。善意は、代替わりで消える。彼の父の店を潰したのは、悪意ではなく、代替わりだった。
「局長」
監査官の一人が扉から顔を出した。
「王宮財務局から回答が来ています。書記官のフェルゼン殿から」
「読み上げてくれ」
「不適合十四項につき異議なし。うち十三項は年数の経過により充足見込み。残る一項は人手により充足不能、必要人員は一名、半年、月八日──試算が添付されています」
エドガルは、顔を上げた。
「試算が」
「はい。かなり細かいものです」
彼は立ち上がって、その回答を受け取った。三枚。二枚目と三枚目が全部数字だった。誤差を測るために誰が何日動くか、その八日で他の業務がどれだけ遅れるか、遅れた分をどこで吸収するか。罫は自分で引いてある。桁は揃っている。
二十二年で、こういう回答を受け取ったのは、片手の指で足りる回数だった。
たいていの回答は、こう書いてある。人手が足りないので出来ません、と。それだけ書いてある。それだけでは、何もできない。足りないと言われた側は、いくら足せばいいのかを知らないからだ。
エドガルは、三枚目のいちばん下を見た。
『責任者:マリアンヌ・フェルゼン』
彼は、その欄をしばらく見ていた。
「これに、何と返しますか」
監査官が訊いた。
「人員一名分の予算は、財務局の管轄だ。監査局は出せない」
「では、却下と」
「いや」
エドガルは首を横に振った。
「監査局の判断としては、不適合のままだ。それは変えない。ただ」
彼は回答を机に置いた。
「この試算を、監査局の年次所見に添える。基準の充足に必要な人員が、現行の配置では出せていない、という事実の例として」
監査官が目を丸くした。
「……それは、基準を作った側が、基準は運用できていないと認めることになりませんか」
「なる」
エドガルは、あっさり認めた。
「基準が正しいことと、基準が運用できることは、別だ。二つを混ぜて報告してきたから、この二十二年、誰も人を増やさなかった」
監査官が出ていったあと、彼は椅子に戻った。中庭で、誰かが箒を使う音がしている。
彼は、リーデン町を救うつもりはない。財務局の記録を通すつもりもない。基準を曲げるつもりは、まったくない。
ただ、曲げないままで通る道があるかどうかは、探す。
それが、彼が父の店に対してできる、唯一のことだった。
敵役の来歴を、恨みで書かないと決めていました。恨む相手がいなかった人は、仕組みを恨む代わりに仕組みを作る。それがこの人の年輪です。リーデン町の掲示板に戻ります。除外はまだ発効していないのに、先に動くものがあります。




