第113話 一年目の記録は足りない
王宮財務局に監査局の照会が来たのは、雨の続く週のことだった。
マリアンヌ・フェルゼンは、その一枚を三度読んでから、自分の机の抽斗を開けた。中には、彼女がこの一年半で作った書類がある。北方輸送路の遅延日数。路線ごと、月ごと。まだ一路線分しかない。紙は湿気で少し波打っていた。
照会の文面は、こうだった。
『王宮財務局が独自に収集している輸送実績記録について、適合基準第十二項ないし第二十九項の充足状況を報告されたい』
マリアンヌは、基準の冊子を借りてきて、自分の帳面と突き合わせた。二日かかった。二日目は、灯りを二度足した。
結果は、はっきりしていた。
第十二項、様式の統一。不適合。彼女が自分で罫を引いた紙を使っている。
第十七項、誤差の記録。不適合。誤差を測る手立てがない。
第二十二項、収集主体の明示。適合。責任者欄に、自分の名がある。
第二十六項、対照可能性。不適合。比べる前年がない。一年目だからだ。
第二十九項、第三者検証。不適合。検証した者がいない。
十八項のうち、適合しているのは、四項だった。
「四項か」
ラウルが、報告を読んで椅子に沈んだ。この二年で、財務官長の白髪はさらに増えている。
「不適合の理由が、どれも同じですね」
マリアンヌは言った。
「まだ、一年目だからです」
「対照可能性は、来年になれば埋まる」
「はい。第三者検証も、人を一人お借りできれば埋まります。ですが」
彼女は、自分の書いた紙を見た。
「誤差の記録は、埋まりません。輸送の遅延日数に誤差を出すには、同じ路線を二つの方法で測る必要があります。二重に測る人手が、うちにはありません」
ラウルは、目を閉じた。
「監査局は、なんと言ってきている」
「不適合の記録は、公開枠組みの照会対象から除外する、と」
「除外」
「はい」
マリアンヌは、そこで自分の声が少し震えたのに気づいて、一度息を吸い直した。
除外というのは、無かったことにされる、という意味ではない。ただ、誰も参照しないというだけだ。参照されない記録は、書き続ける理由を失う。理由を失った仕事は、忙しい月に真っ先に落ちる。落ちたことに、誰も気づかない。
彼女は、この一年半、毎月十七日に北方の駅逓へ手紙を出してきた。前月の遅延日数を書いて返してほしい、と。返事が来ない月もあった。来ない月は、二度書いた。三度書いた月もある。
その全部が、四項だった。
四項という数は、書いた手紙の枚数でも、返ってきた紙の枚数でもない。彼女が一年半で何を積み上げたかとは、何の関係もない数だ。関係がないと分かっていても、目はそこへ戻る。
「マリアンヌ」
ラウルが目を開けた。
「やめろとは言わん」
「やめません」
即答だった。自分でも驚くほど速く出た。
「ただ、聞いておきたい。参照されない記録を、あと二年書けるか」
マリアンヌは、答えなかった。
答えられなかった。
その夜、彼女は誰もいない財務局に残って、抽斗の奥から古い帳簿を出した。エリシアが置いていった、参照用の抜粋。余白の書き込み。
『輸送路B:冬季は使うな。実績が嘘をつく』
彼女は、その一行を指でなぞった。紙が薄くなっている場所だった。何度も同じところを見ていれば、紙は覚える。
実績が嘘をつく、というのは、どういう意味だったのだろう。
この一年半、彼女はずっとそれを考えてきた。数字が間違っているという意味ではない。数字は正確に記録されている。ただ、冬季の実績を平時と同じ列に並べると、読む者が誤る。数字は嘘をつかない。並べ方が嘘をつく。
──だとしたら。
マリアンヌは、自分の帳面をもう一度開いた。
監査局の基準は、彼女の記録を「誤差がないから不適合」と判定した。だが、誤差を測れない記録に「誤差なし」と書かせないのは、むしろ正しい。誤差なしと書いてしまえば、それこそ嘘になる。
彼女は、不適合という判定が、初めて少し違って見えた。
この判定は、彼女を排除しているのではない。彼女の記録が、まだ何かを言い切れる段階にないという事実を、正確に述べている。
それは、屈辱ではなかった。ただ、遅いだけだ。
マリアンヌは新しい紙を出し、監査局への回答を書き始めた。
『不適合十四項について、異議はありません。うち十三項は年数の経過により充足の見込みがあります。残る一項──誤差の記録については、充足の見込みがありません。理由は人手です』
そこまで書いて、彼女はペンを止めた。
人手が足りない、と書いた回答は、これまで何十枚も見てきた。どれも、握りつぶされていた。読む側からすれば、それは報告ではなく苦情に見える。苦情は、机の端に積まれる。
彼女は、その一行の下に、もう一行足した。
『必要な人手は、一名です。半年間、月に八日で足ります。試算を添付します』
試算は、まだ作っていない。これから作る。朝までかかるだろう、と彼女は思った。窓の外では、まだ雨が降っている。
紙を一枚めくって、いちばん上の欄に名を書く。
『責任者:マリアンヌ・フェルゼン』
その欄を空白のまま出したことは、もう一度もない。
四項、という数字を屈辱ではなく「遅いだけ」と読み替えるまでに、マリアンヌは灯りを二度足しました。人手不足を苦情ではなく試算で出す。この作品では、それがいちばん通る武器です。次回、その試算を受け取る側へ。監査局長がまだ穀物商だった頃の、悪人が一人も出てこない話をします。




