第112話 庇わないという対等
レオンハルトの机には、その日、三つの書類が並んでいた。一つは監査局からの定期報告。一つは財務局からの北方輸送費の照会。もう一つは、宰相ヘルムートが置いていった一枚だった。
『リーデン町除外の件、王太子殿下のご判断を仰ぐべきか』
仰ぐべきか、と書いてある。判断を求める書き方ではない。判断を求めてもよいかを問う書き方だ。ヘルムートは長く宰相をやっている。この書き方の意味を、レオンハルトはもう読み違えない。
──殿下が口を出せば、通ります。通してよろしいか。
彼は、その一枚を裏返して置いた。裏返しても、紙はそこにある。読まなかったことにはならない。それが分かっている程度には、彼はもう長く机の前に座っていた。
午後、エリシアが年次報告のために王宮へ来た。用件は監査局の件ではない。港湾分の集計を財務局へ渡す、その受け渡しに立ち会うだけの、事務的な訪問だった。執務室に通したのは、レオンハルトの側の判断だった。
「異議は棄却されたそうだな」
「はい」
「猶予は延びたと聞いた」
「百八十日です」
エリシアは、それ以上言わなかった。報告に来たわけではないからだ。窓際の椅子に浅く腰かけ、綴りを膝の上で揃えている。
レオンハルトは、机の上の裏返した紙に、指を置いた。
「宰相から、私が口を出すかどうかを問われている」
エリシアは黙っていた。
「口を出せば、通る」
「でしょうね」
「通してほしいか」
彼女は、少し考えてから答えた。
「殿下が口を出して通った例外は、次に誰かが例外を求める理由になります」
「私が訊いたのは、そういうことではない」
レオンハルトは顔を上げた。
「お前が、通してほしいかを訊いている」
窓の外で、警備の交代の足音が遠く通り過ぎて、また戻らなかった。
「……通ってほしいです」
エリシアは言った。
「町の十六回を、無かったことにしたくありません」
「そうか」
「ですが、通してほしいとは言いません」
「なぜだ」
「殿下に頼めば通る、という一本の線がある限り、私は制度の設計者ではなく、殿下に近い人間として扱われます」
彼女は、そこで一度息を置いた。
「そして、そう扱われる私が作った制度は、誰も信用しません」
レオンハルトは、しばらく彼女を見ていた。あの日──二年前、彼女を追放した日──彼は、管理できないものを排除した。それが最善だと思っていた。今なら分かる。あのとき彼が本当に恐れていたのは、彼女ではなく、彼女に頼っている自分だった。恐れの向きを取り違えていたぶんだけ、彼は遠回りをした。
「私は、庇わない」
彼は言った。
「監査局は私の下にある。下にある組織の判定を、私が個別に覆すなら、監査局は最初から要らない」
「はい」
「お前を庇わないのは、お前を軽んじているからではない」
「存じています」
エリシアは、静かに答えた。
「それが、対等ということだと思います」
レオンハルトは、裏返した紙を表に戻し、ペンを取った。
『判断を仰ぐに及ばず。監査局の手続きを妨げない』
書いて、公印を押す。押す音は、思ったより軽かった。重い決定ほど、音は軽くなる。
「これで、お前は一人で戦うことになる」
「一人ではありません」
エリシアが言った。
「ハルフェンがいます。それに」
彼女は、机の上のもう一つ、財務局からの照会に目をやった。
「王宮にも、数字を数え始めた人がいます」
レオンハルトは、その照会を手に取った。北方輸送費の遅延実績について、過年度の記録の有無を問う一枚。差出人の欄に、書記官の名がある。字は小さく、几帳面で、余白の取り方に無駄がなかった。
「マリアンヌ・フェルゼンか」
「ご存じでしたか」
「名前だけだ。ラウルが、最近この名で書類を上げてくる」
彼は照会を戻した。
「三年かかると言っているそうだな」
「はい」
「遅い」
「速い解決は、たぶん、また同じことを起こします」
エリシアが言った。
レオンハルトは、その言い回しに聞き覚えがある顔をした。それがどこで生まれた言葉なのかを、彼は知らない。知らないまま、頷いた。
「……そうだな」
用件は終わった。エリシアは会釈をして、扉のほうへ歩く。
「エリシア」
名を呼ばれて、彼女は振り向いた。
「庇わないと決めたが、見ていないわけではない」
「はい」
「それだけだ」
「十分です」
彼女は、少しだけ間を置いてから、付け足した。
「見ていただかないと、三年後に測る人がいなくなりますので」
彼女は言って、部屋を出た。扉が閉まったあと、レオンハルトはしばらく机の前に座っていた。
庇わないと決めるのは、庇うより難しい。決めた瞬間から、結果を全部見届ける義務が残る。庇ってしまえば、そこで話は終わる。終わらせない代わりに、彼は最後まで見ていなければならない。
次の一枚を引き寄せる前に、彼は宰相の紙をもう一度読み返した。仰ぐべきか、という書き方。ヘルムートは、これを何度も使う。使うたびに、決めた者の名が紙に残らない仕組みが一つずつ増えていく。
いつか、それも直さなければならない。今日ではない。
彼は書類を引き寄せて、次の一枚を開いた。
庇う王太子のほうが、書くのは楽です。庇えばそこで話が閉じる。庇わないと決めた瞬間から、作者も彼も続きを見届ける羽目になります。次回、その王宮で数え始めた人のところへ監査局の照会が届きます。十八項を自分の帳面に当てて二日、出た数は「四」。ブックマークと評価は、王宮で数字を数える人がもう一人増える程度には効きます。




