第111話 正しい数字が、間違っている
監査局の審査卓は、思っていたより低かった。
告発の場ではないという設計なのだろう、とエリシアは思った。壇上から見下ろす形にしていない。卓を挟んで、同じ高さで向かい合う。エドガル・ヴェインの左右に監査官が二人、書記が一人。ハルフェン本部からはエリシアとアルノーが出た。壁に窓が二つあり、どちらも開いている。春の風が、紙の端をときどき持ち上げた。
「本日は、リーデン町の除外措置についての異議申し立てを承ります」
エドガルが言った。手元には冊子と、白紙の綴りが一冊だけ置いてある。書き足すために持ってきた綴りだ、とエリシアは思った。
「申立人はハルフェン本部、ルーヴェル様。よろしいですか」
「はい」
「では、どうぞ」
エリシアは、卓に一年半分の更新記録を置いた。厚みは、指二本ぶんもない。
「リーデン町の簡易公開は、一年半で十六回更新されています。欠けたのは二回、いずれも大雪の月です。数字は粗く、桁も揃っていません。誤差の記録もありません。基準の十一項に適合しないというご判定は、事実として正しいと考えます」
「認められる、と」
「はい」
監査官の一人が、わずかに姿勢を崩した。異議申し立てで冒頭に不適合を認めるとは思っていなかったのだろう。書記の筆も、一度止まった。
「そのうえで申し上げます」
エリシアは続けた。
「基準は、測れるものを測っています。この町の価値は、測られていない側にあります」
「具体的に」
「継続です」
彼女は記録の頁を開いて、卓の中央へ滑らせた。紙は薄く、角が一様に丸くなっている。読まれた回数ではなく、運ばれた回数のぶんだけ丸い角だった。
「十六回のうち、十五回が期日どおりに出ています。書ける者は二人しかいません。二人で、一年半、月に一度、必ず出した。粗いままで、途切れずに」
「途切れないことは、基準の評価項目に含まれています」
エドガルが言った。冊子を開くまでもない、という速さだった。
「第三十一項です。更新の継続性。リーデン町はこの項に適合しています」
「では、適合している項が、不適合の十一項を上回る場面は、基準のどこにありますか」
静かな問いだった。声を張らずに訊けるだけの下調べを、彼女は済ませて来ていた。窓から入る風が、卓の端の紙を一枚だけ持ち上げて、また戻した。
エドガルは、手元の冊子をめくった。めくる音だけが、しばらく部屋にあった。開いた頁を指で押さえ、目で追い、また戻す。彼は、答えを知っていて確かめる読み方をしていた。
「ありません」
彼は答えた。冊子を閉じずに、開いたまま卓へ伏せた。伏せた頁が、こちらから読める向きになっていた。
「基準は各項の充足を独立に判定します。項の重みづけは置いていません」
「なぜ置かなかったのですか」
「重みを置くと、重みを決める者が制度になるからです」
エリシアは、その答えに一度、口を閉じた。彼は逃げていない。むしろ、彼女が何度も使ってきた理屈を、そのまま返してきた。判断する人間を制度の中心に置かない。置いた瞬間に、その人間の善意が制度の前提になる。
「おっしゃることは、分かります」
彼女は言った。
「では別の言い方をします。この基準は、書ける者が二人しかいない町を、制度の外へ出す設計になっています。それは意図されたものですか」
「意図はしていません」
「結果として、そうなっています」
「はい」
エドガルは認めた。認めたうえで、動かなかった。
「ルーヴェル様。意図しない結果が出たとき、基準を曲げるのと、基準に届く手助けをするのと、二つの道があります。監査局は後者を選びます」
「九十日で、二人に何を教えますか」
「猶予の延長は検討できます」
「延長しても、誤差を測る人がいません」
「では、そこが本当の課題です」
エドガルは、初めてわずかに身を乗り出した。手は卓の上で組んだままだった。組んだ指の位置が、名乗ったときから一度も変わっていない。
「その町に足りないのは、基準への例外ではありません。人です。人が足りないことを、公開枠組みの側で誤魔化してきたのが、この一年半ではありませんか」
その言葉は、ぶつけるふうではなかった。むしろ、静かだった。静かだったぶん、逃げ場がなかった。
エリシアは、卓の上の記録を見た。誤魔化してきた、という言い方は、正確ではない。だが、まったく的外れでもなかった。粗くてもいい、続けばいい──そう言って始めたのは彼女だ。始めることに意味があると信じて、精度の問題を先送りにした。一年半ぶんの先送りが、いま請求書になって戻ってきている。
「……先送りにしたのは、私です」
彼女は言った。
「ですが、先送りにしなければ、あの町は始めてすらいませんでした」
「存じています」
エドガルは頷いた。存じています、という返事に、含みも慰めも無かった。知っていることを知っていると言っただけの声だった。
「だからこそ、除外の判定は苦しい。私は、その苦しさを判定の理由にしません」
審査は、そこで終わった。
異議は棄却された。猶予は九十日から百八十日に延長された。それが、この日の全部だった。書記が読み上げ、印を押し、卓の上の紙が片づけられるまで、四半刻もかからなかった。
最後に、判定書の写しの回付先が読み上げられた。監査局の記録庫、申立人、そして王太子宮。三つめは、この種の判定では定型の宛先だという。エリシアは、その一行を書き取らなかった。書き取らなくても、覚えていられる長さだった。
帰りの馬車で、アルノーが長く黙っていた。それから言った。
「……こちらが、間違っていたのでしょうか」
「いいえ」
「では、あちらが」
「あちらも間違っていません」
エリシアは窓の外を見た。王都の石畳が、灯りを反射している。夕暮れの色が、ちょうど抜けたところだった。
「数字は正しく、判定も正しく、そして町は外れます。正しさが足りていないのではありません。正しさで拾えないものを、誰も拾う設計にしていないだけです」
アルノーが、膝の上で手を組み直した。組み直してから、訊いていいかどうかを一度考えた顔をした。
「それは、直せますか」
「直し方が分かりません」
彼女は正直に答えた。
「まだ」
勝ち負けにならない審査を書くのは、勝たせるより難しい。双方が正しいまま、町だけが外れる。この部でいちばん書きたかった形の一つです。舞台は王宮へ。宰相の置いていった『仰ぐべきか』の一枚を、レオンハルトはまず裏返します。




