第110話 基準に届かない町
その男がハルフェン本部の受付に立っていると聞いて、エリシアはすぐに階下へ降りた。
一年半前、公開枠組みを内陸へ広げる試みを最初に引き受けた町の代表だった。簡易公開──精度は粗く、更新も月に一度、書けるのは取引の件数と量と遅れ日数だけ。それでも始めた。あのとき彼は、深く頭を下げて「それで十分です」と言った。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。
今日は、頭を下げなかった。
「ルーヴェル様」
ヨナス・レントは、上着の内から折り畳んだ紙を出して、両手で差し出した。紙は角が丸くなっている。何度も出しては、しまわれた紙だった。
「これを、読んでいただけますか」
エリシアは受け取って、その場で読んだ。適合基準不適合の通知。不適合は十一項。措置は簡易公開の枠組みからの除外で、猶予は九十日と書かれている。
「除外というのは」
ヨナスが言った。
「うちの数字を、もう載せない、ということですか」
「そう読めます」
「載せないと、どうなりますか」
「取引先が、あなたの町の数字を照会できなくなります」
エリシアは通知を返した。
「照会できないものは、多くの場合、無いものとして扱われます」
ヨナスは、その言葉を聞いても表情を変えなかった。もう分かっていたのだろう。四日かけて来る道中、何度も考えたはずだ。考え尽くした人間の顔は、たいてい静かになる。
執務室に通し、アルノーに記録を出させた。リーデン町の簡易公開は一年半で十六回更新されている。欠けたのは二回、どちらも大雪の月だった。数字の粗さは開始時から変わっていない。粗いまま、途切れずに続いていた。
エリシアは、その十六枚をひととおり並べた。字が二種類ある。太いほうと、細いほうだ。書き手が二人いるというのは、こういう形で紙に残る。
「正確ではありません」
ヨナスが言った。
「桁も揃っていませんし、誤差の欄もありません。書ける者が二人しかいないので、あるものしか書けなかった」
「存じています」
「基準は、正しいです」
彼は繰り返した。自分に言い聞かせるような繰り返し方だった。
「秋に、私はあの場にいました。異議を出す機会もありました。出さなかったのは、私です」
エリシアは、彼をまっすぐ見た。
「レント様」
「はい」
「異議を出さなかったのは、あなたの落ち度ではありません」
ヨナスが顔を上げる。
「四十七項を半日で読み上げられて、その場で自分の町がどの項に落ちるかを判別できる人間は、あの部屋にはいなかったはずです。判別するには、基準を自分の帳面に当てて数える必要があります。それは、持ち帰って半月かかる作業です」
「……三十日、ありました」
「三十日あって、誰も出さなかったのですね」
「はい。一件も、と聞きました」
エリシアは頷いた。一件も出なかった、という数字が、昨日から彼女の中で重さを増していた。
異議がゼロだったのは、基準が完璧だったからではない。異議を出すために必要な作業の量が、意見を求められた側の手に余っていたからだ。そして監査局は、その作業を誰かがやってくれる前提で三十日を置いた。誰も悪意で動いていない。それでも、こうなる。
ゼロという数字は、いちばん扱いにくい。多い少ないの話ができないからだ。ゼロを見た者は、たいてい「問題が無かった」と読む。読み方を誤らせる数字を、彼女は自分でも何度か作ってきた。
「猶予は九十日ですね」
「はい」
「そのあいだに、十一項を満たせますか」
ヨナスは首を横に振った。
「書ける者が二人です。今の帳面で手一杯です。誤差の欄を作るなら、まず誤差を測る者がいります。うちに、その人はいません」
「では、九十日では無理ですね」
「無理です」
彼は、そこで初めて少し笑った。乾いた笑い方だった。
「一年半、続けたんですがね」
エリシアは、机の上のもう一枚──監査局から届いた設計監査の通知に、目をやった。同じ署名がある。同じ公印が押してある。同じ手が、同じ日に、この二枚を作ったのかもしれない。
「レント様。一つだけ、お約束できることがあります」
「なんでしょう」
「あなたの町の十六回を、記録として残します。枠組みから外れても、続けたという事実は消えません」
ヨナスは、しばらく黙っていた。
「それは」
彼は言った。
「取引が戻る話ですか」
「いいえ」
「では、何の役に立ちますか」
エリシアは、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えを口にすれば、それが慰めになってしまうと分かっていたからだ。慰めは、受け取った側に、受け取ったふりをする仕事を増やす。
彼女は代わりに、机の抽斗から白紙を一枚出した。罫は引かない。書式も決めない。ただ、いちばん上に一行の欄を作って、そこに書いた。
『責任者:エリシア・フォン・ルーヴェル』
それを、ヨナスのほうへ向けて置く。
「今すぐ役には立ちません。ですので、誰が引き受けたかだけ、先に書いておきます」
ヨナスは、その一行を長く見ていた。
それから、今度は頭を下げた。一年半前より、浅い下げ方だった。
慰めを言わない、というのがこの回のエリシアの仕事でした。慰めは、受け取った側に「受け取ったふり」の仕事を増やす。代わりに彼女が置いたのは、名前が一行入るだけの白紙です。次回、監査局の審査卓。エリシアは異議申立ての口火を、相手の判定を認めるところから切ります。




