第109話 誰も反対しなかった基準
ヨナス・レントが王都へ呼ばれたのは、去年の秋のことだった。
内陸リーデン町の代表として、公開枠組みの適合基準に意見を述べる。そういう書面が届いた。町の集会所で読み上げると、老人たちが顔を見合わせた。誰も、意見を求められた経験がなかったからだ。求められた経験がないと、まず疑う。何かの手違いではないか、と。
「行くのかね」
「行きます。呼ばれて行かないのは、次から呼ばれない理由になります」
馬車で四日かかった。宿代は町が出した。出すと決まるまでに、集会所で二晩かかっている。
王都の監査局は、彼が想像していたよりずっと質素な建物だった。石造りで、装飾がなく、廊下が長い。廊下の突き当たりにも飾りがなく、ただ窓があった。
通された部屋には、二十人ほどが集められていた。港の記録係、商会の帳簿方、地方の代官の代理。みな、書類を膝に置いて背を丸めていた。ヨナスは、自分の服が一番くたびれていることに気づいて、上着の裾を直した。直しても変わらないことは分かっていた。
監査局長のエドガル・ヴェインが、正面に立った。
「本日は、適合基準の案についてご意見を伺います」
彼は、基準の草案を一項ずつ読み上げた。全部で四十七項あった。読み上げには半日かかった。途中で水を一度飲んだきり、声の調子は最後まで変わらなかった。
ヨナスは、そのほとんどを理解できなかった。理解できなかったというより、自分の町に関わる項がどれなのか、判別できなかった。記録の様式、更新の頻度、誤差の許容範囲、数字の桁数──どの言葉も、正しそうに聞こえた。正しそうに聞こえるものを、その場で自分の帳面に当てて数える手立てが、彼にはなかった。
最後に、エドガルが言った。
「異議のある方は、この場でも、後日書面でも構いません。異議申し立ての期間は三十日置きます」
部屋は静かだった。
誰も手を挙げなかった。ヨナスも、挙げなかった。
挙げない理由を、彼は自分でいくつか用意していた。読み切れていないから。自分より詳しい人が黙っているから。四日かけて来た先で、たった一人で異を唱えるのは重すぎるから。
だが、いちばん大きな理由は、もっと単純だった。
──反対する理由が、思いつかなかった。
基準は正しかったのだ。記録は正確なほうがいい。更新は頻繁なほうがいい。誤差は小さいほうがいい。そのどれにも、彼は賛成だった。賛成しているものに手を挙げる方法を、彼は知らない。
部屋を出るとき、隣の席の男が「良い会でしたな」と言った。ヨナスも同じことを言った。二十人が同じことを言って、四方へ散った。
帰りの馬車で、隣に座った港の記録係が言った。
「よく出来ていましたね」
「ええ」
「うちは通りますよ、あれなら」
ヨナスは頷いた。うちも通るだろう、と、そのとき彼は思っていた。窓の外を、刈り入れの終わった畑が流れていた。
隣の男の町には港がある。書ける者は五人いると言った。五人で回している帳面と、二人で回している帳面が、同じ基準で測られる。そのことに、ヨナスはこのとき何も思わなかった。数の話は、基準の話とは別だと思っていた。
三十日が過ぎ、異議は一件も出なかった。基準は成案となり、公印が押され、公示された。冊子が各地へ配られ、リーデン町にも届いた。集会所の棚に置かれ、一度も開かれないまま冬を越した。
棚には、去年の触書と、一昨年の触書も並んでいる。届いた紙を棚に上げるところまでが、この町の作法だった。上げたあとに読み返す習慣は、誰も持っていない。読み返す必要があった紙が、これまで一枚も無かったからだ。
春になって、簡易公開の更新期が来た。
ヨナスは、いつもどおり帳面を作った。取引の件数、扱った量、遅れた日数。町で唯一、数字を書ける若い衆が二人がかりで写す。月に一度、掲示板に貼る。それが一年半続いていた。粗い。だが、途切れていない。
様式に不備がある、という通知が来たのは、その二週間後だった。
通知には、四十七項のうち十一項に適合していないと書かれていた。更新の頻度が足りない。誤差の記録欄がない。数字の桁が揃っていない。前年との対照表がない。
ヨナスは、通知を集会所の卓に広げて、長いこと見ていた。どの項も、去年の秋に読み上げられ、彼が黙って聞いていたものだった。
「異議は、出さなかったのかね」
老人の一人が訊いた。
「出しませんでした」
「なぜ」
ヨナスは、答えるのに少し時間がかかった。
「……正しかったので」
そう言ってから、彼は、自分の言葉に何かが足りていないことに気づいた。
基準は正しい。それは今も変わらない。ただ、正しい基準に、自分の町が届いていないということを、あの部屋にいた誰も教えてくれなかった。教える役目の人間が、あの部屋にはいなかった。
いや──と、彼は思い直す。
いなかったのではない。それは自分の役目だったのだ。呼ばれて、意見を求められて、そこに座っていた者の。
彼は通知を畳んで、上着の内側に入れた。紙の角が、脇腹に当たった。
王都まで、また四日かかる。今度は、宿代を町に出させるつもりはなかった。
異議がゼロだった、というのは作中でいちばん怖い数字のつもりで書きました。反対がないのと、反対できないのは、紙の上では同じ顔をします。次回、ヨナスは四日かけてハルフェンへ。今度は頭を下げません。ブックマークと評価は、三十日で一枚も出なかった異議申立ての用紙の代わりに、ここで一枚どうぞ。




