第108話 例外を作らない人
エドガル・ヴェインは、約束の刻限より四半刻早く来た。
早すぎる訪問は無礼にあたる。だが彼は玄関で待つと言って、実際に本部の入口で立ったまま待った。案内に出たアルノーが恐縮して中へ通そうとしても、刻限までは動かなかった。壁にもたれもせず、鞄を床に置きもせず、ただ立っていた。
「約束は刻限です。早いのも、遅いのも、約束と違います」
それが、エリシアが最初に聞いた彼の言葉だった。詫びの形も、皮肉の形もしていない。約束という語を、そのままの意味で使う人間の言い方だった。
執務室に通されたエドガルは、四十半ばの、痩せた男だった。監査局の制服は着ていない。灰色の上着に、装飾のない襟。袖口だけが少し擦れている。書類鞄を膝に置いて、背を伸ばして座る。座り方に、長く役所にいる人間の型があった。
「王国監査局長、エドガル・ヴェインです」
「エリシア・フォン・ルーヴェルです」
「存じております」
彼は微笑まなかった。愛想がないのではなく、この場で微笑む理由がないと判断している顔だった。
「本日は、設計監査の趣旨をご説明に参りました。監査そのものは、秋に入ってからです」
「半年、先ですか」
「はい」
エドガルは頷いた。頷いてから、次の言葉までにわずかな間があった。用意してきた説明を、順番どおりに出すための間だった。
「監査は不意打ちで行うものではありません。何を見るかを先に伝え、備えていただいたうえで見ます。備えられて困る監査なら、その監査の設計が悪い。隠されたものを暴くのが目的ではなく、制度が設計どおり動いているかを確かめるのが目的ですので」
エリシアは、その言い方を頭の中でもう一度なぞった。正しい。少なくとも、彼女の知っている監査の作法より正しい。
王宮にいた頃、監査という語は抜き打ちと同義だった。抜き打ちで見つかるのは、たいてい、隠していたものではなく間に合わなかったものだ。
「では、何を見られますか」
「三点です」
エドガルは鞄から一枚の紙を出して、机に置いた。項目が三つ、番号を振って並んでいる。字は小さく、行間が詰まっていて、飾りがなかった。
「一つ。公開枠組みの各分野が、統一された適合基準を満たしているか。二つ。基準を満たさない運用が、どれだけ残っているか。三つ」
彼は指を止めた。読み上げる速さは変わらなかったが、三つめの前だけ、間が一拍長かった。
「設計主体であるハルフェン本部が、基準の外に置かれていないか」
「私たちが例外になっていないか、ということですね」
「はい」
迷いのない返事だった。訊かれることを見越して、答えを先に置いてあった者の速さだった。
「制度を守るために、設計者も例外にしません。例外を一つ作ると、次の例外の理由は必ず前の例外になります。二つめからは、誰も止められません」
エリシアは黙って聞いていた。反論する言葉が、出てこなかった。彼の言っていることは、王宮を出てからの二年間、彼女が何度も口にしてきたことだった。
制度は運用する人間の善意で持たせるものではない。持たせなくても回る形にしておくものだ。だから設計者も例外にしない──それは、正論だった。自分の声で読み上げられた正論ほど、扱いにくいものはない。
「基準は、どなたが作られましたか」
彼女は訊いた。冊子の題より先に、書いた者の名を知っておきたかった。
「監査局です。昨年の秋に成案となりました。各分野の実務者から意見を集め、異議申し立ての期間も置きました」
「異議は」
「ありませんでした」
エドガルは、それを誇るふうでもなく言った。誇るところだと思っていない顔だった。
「一件も、です」
その一言を、エリシアは長く覚えておくことになる。そのときはまだ、単に手続きが丁寧だったという話として聞いていた。
「基準の写しを、頂けますか」
「本日お持ちしました。公開されていますので、写しというより配布物です」
彼は鞄から冊子を出して、机に置いた。厚い。指で押すとわずかに沈むほど、紙が詰まっている。表紙に飾りはなく、題と、成案の日付と、監査局の名だけがあった。
エリシアは表紙を見て、それから顔を上げた。題も、日付も、局の名も、どれも同じ大きさで刷ってある。どれかを大きくすれば、そこを先に読ませたいという意思になる。刷った者は、それを避けていた。
「一つ伺っても」
「どうぞ」
「局長が、なぜ自らいらしたのですか」
エドガルは、初めて少しだけ間を置いた。
「私が基準に署名したからです」
彼は言った。声の高さは、名乗ったときと変わらなかった。
「署名した者が、その基準の最初の適用を見に来ないのは、無責任だと考えました」
帰り際、彼は玄関で一度だけ振り返った。
「ルーヴェル様。私は、あなたの設計を高く評価しています」
「恐れ入ります」
「ですので、例外にはしません」
扉が閉まる音は、丁寧だった。閉め際に手を添える人間の閉め方だった。
執務室に戻ると、ヴァルドが窓辺で外を見ていた。エドガルの馬車が門を出ていくところだった。飾りのない、役所の馬車だ。
「どうだった」
「正しい人でした」
「褒めているように聞こえんな」
「褒めています」
エリシアは机の冊子に手を置く。掌に返ってくる重さが、思っていたより硬い。四十七項。半日で読み上げられるように編んであると、彼は言った。読み上げられる、ということと、聞いた側が自分の帳面に当てられる、ということは違う。その違いは、まだ彼女の中で形になっていない。
「それは正しい。だから厄介だ」
ヴァルドが言った。エリシアが言おうとしていたことを、先に言われた形だった。
「言おうと思っていました」
「知っている」
彼は窓から離れる。馬車の音が門の外へ抜けきるまで、ヴァルドは何も言わなかった。
「悪人が来たなら、こちらは正しさで戦える。正しい人が来たときに、何で戦うんだ」
エリシアは答えなかった。
答えを、まだ持っていなかったからだ。
エドガル・ヴェインという人は、書いている側から見ても隙がありません。隙のない相手を出すと、主人公は正論で殴れなくなる。それがこの部の設計です。次の舞台は内陸の町。四十七項を半日で読み上げられた部屋で、誰一人手を挙げなかった秋の話をします。




