第107話 宛先が七割を超える
※第2部です。本編完結からおよそ一年後のお話から始まります。
※恋愛は本編どおり控えめのままです。第1部を読んでいなくても、ここから読めるように書いてあります。
春先の報告書は薄い。冬のあいだに溜まった案件が年度の切り替えで一度片づくので、この時期だけは紙束が軽くなる。厚みを指で測る癖がいつのまにか付いていて、エリシア・フォン・ルーヴェルは、去年より少しだけ薄いな、と思った。
ハルフェン本部の執務室で、彼女は公開枠組みの四半期報告を開いていた。設計者としてではなく、監査と助言の立場で。表紙の書式は去年と変わっている。項目の並びが入れ替わり、余白の取り方が広くなり、誰かが読みやすさを考えた跡があった。担当者の欄に並ぶ名前も、半分は知らない。
それが、望んだ形だった。
「苦情の宛先ですが」
アルノー・リヒターが手元の綴りを繰る。紙の端を親指で送る音が、まだ人の少ない朝の執務室ではよく響いた。
「監査局宛が七割を超えました。前回が六割です」
エリシアは、頁をめくる手を止めた。
半年前、同じ数字が六割になったとき、彼女は「良い数字です」と答えている。文句の持って行き先が正しくなっている。制度はそこで初めて機能する、と。あのときは、言い終えてから紅茶に手を伸ばすくらいの余裕があった。
いま同じことを言えるかどうかを、彼女はしばらく考えた。考えているあいだ、報告書の同じ行を二度読んでいた。
「宛先の内訳を、もう一段細かく取れますか」
「取れます。ですが、先に申し上げておくと」
アルノーが言葉を選ぶ。この男が言葉を選ぶときは、たいてい、こちらに都合の悪い数字が後ろに付いている。
「六割から七割へ動いたのは、監査局が窓口を増やしたからです。王宮の窓口が減ったわけではありません」
「では、分母のほうが動いたのですね」
「はい。苦情の総数が、二割ほど増えています」
エリシアは頷いた。増えたのは、悪いことではない。諦められていない証拠だ。声を上げても無駄だと思われた制度では、数字は静かに減っていく。王宮の窓口が七割を受けていた頃、苦情は年に二百件しかなかった。少ないから良いのだと、当時は誰もが言っていた。
問題はそこではなかった。
「七割というのは」
彼女は報告書を閉じて、机に置く。表紙の角が、指の下で少し反った。
「監査局が、この制度について答えられる唯一の場所になった、ということです」
アルノーの手が止まった。
「……それは、良くないのですか」
「良い悪いの話ではありません。設計の話です」
エリシアは窓のほうを見る。港では荷役が動いている。滑車の軋みと、数を読み上げる声。公開枠組みが始まって二年、誰もそれを特別なものとして扱わなくなった。日常になったということだ。
「窓口が一つになると、その窓口の判断が制度そのものになります。判断が正しいうちは、誰も困りません」
「正しくなくなったときは」
「困る人が出ます。そして、困ったと言いに行く先が、同じ窓口しかありません」
アルノーは何も言わなかった。それから報告書の余白に一行だけ書き足した。書きながら、口の中で何かを二度読み返している。おそらく次の四半期から、宛先の欄が一つ増える。この男は、納得しないままでも手が動く。納得してから動く人間より、たいてい速い。
午後、ヴァルド・グレインが書類の束を抱えて入ってきた。上から二枚目を抜いて、机に滑らせる。滑らせ方が乱暴だったので、内容は察しがついた。
「王国監査局から来ている。公文書だ」
封には王国監査局の公印が押されていた。蝋ではなく朱の印だ。紙も上等ではない。見せるための封ではなく、届けるための封だった。エリシアは開いて、二度読んだ。
『公開枠組みの設計監査を実施する。設計主体としてハルフェン本部の協力を求める』
文面は短く、礼儀正しく、非の打ちどころがなかった。
「設計監査」
ヴァルドが繰り返す。
「制度を作った側を、制度の側から検査する、ということか」
「そう読めます」
「断れるか」
「断る理由がありません」
エリシアは通知を机に置いた。
「監査局は、公開枠組みを監督する立場です。監督する対象に設計主体が含まれていないほうが、むしろ設計として穴です。私が二年前に埋めておくべきものでした」
「お前が作った穴か」
「私が塞がなかった穴です」
ヴァルドは短く笑って、それから笑うのをやめた。窓辺へ寄り、外を見て、また戻ってくる。落ち着かないときのこの男の癖だった。二年前は、この癖が出るのは金の話のときだけだった。いまは、紙の話でも出る。
「気に入らんな」
「私もです」
エリシアは答えた。
「ですが、気に入らないというのは、根拠になりません」
彼女は通知の日付を確かめる。監査官の来訪は十日後。準備には足りないが、慌てるには十分な間の取り方だった。署名の欄には、見覚えのない名前があった。
『王国監査局長 エドガル・ヴェイン』
局長が自ら来る、と書いてある。
エリシアは、その一行を少し長く見た。局長が自ら動くというのは、案件が重いか、担当を信用していないか、あるいは──本人がそれを重要だと思っているか、のどれかだ。
最後のものが、いちばん厄介だった。
第2部は、制度を作った側が検査される側に回る話です。悪意で動く人は、今回もほとんど出てきません。次回、監査局長エドガル・ヴェインが刻限の四半刻前に来て、玄関で立ったまま待ちます。「約束は刻限です」から始まる人です。ブックマークと評価は、苦情の宛先の欄にもう一行増やしていただく感覚でどうぞ。




