第106話 後日談 議題のない時間
※本編完結後の後日談です。最終話から、さらに半年ほど先のお話。
※恋愛は本編どおり控えめのままです。
何かが解決する回ではありません。解決したあとの、議題のない時間の話です。
冬の報告書は、いつも厚くなる。
ハルフェン本部の執務室で、エリシア・フォン・ルーヴェルは公開枠組みの年次報告に目を通していた。設計者としてではなく、監査と助言の立場で。自分が作らなかった書式に、自分が知らない担当者の名前が並んでいる。
それが、望んだ形だった。
「苦情件数、前年比で二割減です」
アルノー・リヒターが淡々と読み上げる。
「増やしてください」
エリシアは即答した。
アルノーの手が止まる。
「……減ったのですが」
「減ったのが良いこととは限りません」
彼女は報告書の一枚を抜き出して、机に置いた。
「苦情が減るのは、諦められたときにも起きます。見るべきは件数ではなく、宛先です」
窓の外は曇天。港の荷役の音が、遠く途切れずに続いている。
「宛先の内訳は」
「……こちらです。監査局宛が六割。以前は王宮宛が七割でした」
「では、良い数字です」
エリシアは頷く。
「文句の持って行き先が正しくなっている。制度は、そこで初めて機能します」
アルノーは何か言いかけて、やめた。それから小さく息を吐いて、報告書の余白に一行だけ書き足した。おそらく、来年の書式が一つ変わる。
午後、書類の束を抱えて入ってきたのはヴァルド・グレインだった。
「王都行きの件だが」
「予定どおり参ります」
「お前が行かなくても回るだろう」
「回ります」
「なら、なぜ行く」
「回っていることを、確認しに行きます」
ヴァルドは声を出さずに笑って、束の一番上を指で叩いた。
「私信が一枚混ざっていた。公文書の体裁で来ていたから、私も最後まで公文書だと思って読んだ」
エリシアは受け取って、開く。
王家の紋。事務的な文字。用件は一行だけだった。
『報告のあと、時間があるか』
誰の筆かは、確かめる必要もなかった。
「返事は」
「必要でしょうか」
「必要だな」
ヴァルドは断言して、部屋を出ていった。扉の閉まる音が、やけに丁寧だった。
王都の財務局は、記憶にあるよりも静かだった。
通された会議室で、エリシアは一年目の記録を受け取る。北方の輸送路、たった一路線分の遅延日数。数字はまだ荒く、欠けている月もある。
だが、いちばん上の欄が空白ではなかった。
『責任者:マリアンヌ・フェルゼン』
エリシアは、その一行を少し長く見た。
「まだ、再現には足りません」
書記官がそう言って、視線を落とす。
「一年分では、何も言えないと分かっています」
「言えないことが分かっているなら、十分です」
エリシアは記録を閉じた。
「二年、続けてください。三年目に、初めて意味が出ます」
余計なことは言わなかった。褒めれば、この記録は誰かのためのものになる。そうなった数字は、たいてい嘘をつく。
夕方。
あの遊歩道は、冬でもよく整えられていた。
かつて何もなかった外れの一角に、いまは石畳と、等間隔の灯りがある。灯りの油代がどの予算から出ているのか、エリシアは知っていた。知っていて、それでも足を止めずに歩いた。
「時間を取らせたな」
レオンハルトは、先に来ていた。
護衛は離れている。公務の顔ではない。
「報告は問題ありません」
「報告の話をしに来たわけではない」
「存じております」
二人はどちらからともなく歩き出す。並んで、同じ方向を見て。
しばらく、灯りの数を数えるくらいの沈黙があった。
「一つ、決めておきたいことがある」
王太子が言う。
「月に一度、時間を取る。議題のない時間だ」
エリシアは歩きながら少し考えて、答えた。
「お断りします」
レオンハルトの歩調が、わずかに乱れた。
「理由を聞こう」
「制度にすると、守れなくなったときに壊れます」
彼女は前を見たまま続ける。
「月に一度と決めれば、二月続けて欠けた月が『破綻』になります。あなたは国の責任者で、私は監査する側です。どちらも、決めた日に必ず空いている仕事ではありません」
「……確かに、そうだ」
「制度は、守れる範囲で作らなければ意味がない。あなたが教えてくださったことです」
「私は、そんな上手いことを言った覚えはないな」
「言っていません。やって見せて、失敗されました」
王太子は、短く笑った。
風が抜ける。灯りが揺れて、消えない。
「では、どうする」
「決めないことにしましょう」
エリシアは足を止めて、彼を見た。
「会いたいときに、会いたいと言います。あなたも、そうしてください。返事が『無理だ』でも構いません。それなら、破綻しません」
沈黙が、少し長かった。
「……ずいぶん、ぬるい取り決めだ」
「取り決めではありません」
「そうだったな」
レオンハルトは頷いた。
「それでいい」
冬の空が、灯りの色に近づいていく。
港では、まだ荷が動いている。誰も公開枠組みを特別なものとして扱わない、その日常の音だ。
帰り際、エリシアは一度だけ立ち止まった。
「レオンハルト」
王太子が振り向く。何も言わない。
「……やはり、慣れません」
「慣れなくていい」
その返事は、少し早かった。
エリシアは会釈をして、歩き出す。
次にいつ会うかは、決めなかった。
制度も、関係も、完成はしない。
だから、選び続ける。
風が吹く。灯りが揺れる。
消えない。
月に一度と決めない、と決めるのがこの二人です。守れない制度は破綻として記録されるので、記録に残らない形でしか会えない。婚約もお約束も、まだ何ひとつ決まっていません。ブックマークと評価は、後日談のお茶に淹れておきます。議題はありません。
ここで一度は筆を置いたのですが、続きが出てきました。この話でエリシアが「良い数字です」と言った監査局宛の六割は、半年後に七割を超えます。次話から第2部(監査局編・全30話)が始まります。本編完結からおよそ一年後、今度は制度を作った側が検査されます。




