第105話 閑話 残された者の帳簿
※本編完結後の閑話です。視点は、第1話・第2話に出てきた王宮財務局の書記官マリアンヌ・フェルゼン。
※いわゆるスカッと一発逆転ものではありません。
じわじわ効く逆転と、静かなざまぁがお好きな方へ。
エリシア・フォン・ルーヴェルが王宮を去って、季節が一つ巡った。
財務局の会議室から、あの日の混乱はもう消えている。
積み上がった書類も、赤線だらけの予算案も、片づいた。
だが、片づいたことと、解決したことは、同じではない。
マリアンヌ・フェルゼンは、その違いを、この半年で嫌というほど学んだ。
朝の財務局。まだ人の少ない時間に、彼女は自席で帳簿を開く。
北方辺境防衛費。かつて崩壊の起点になった、あの案件だ。
数字は、いまも合っていない。
正確に言えば――合わせられる者が、いなくなった。
輸送費、倉庫管理費、季節ごとの穀物消費量。ひとつひとつは、財務局の誰もが読める。だが、それらを一枚に束ね、矛盾なく整える者が、この部屋にはいない。
エリシアが持っていたのは、知識ではなかった。
知識を、ひとつの形に組み上げる設計だった。
それを、彼女は持って出ていった。
いや――持って出たのではない。最初から、渡していなかったのだ。
「マリアンヌ。まだ残っていたのか」
財務官長のラウルが、疲れた顔で入ってくる。
この半年で、彼の白髪は明らかに増えた。
「第二案の整合、進んだか」
「途中です」
マリアンヌは、正直に答える。以前の彼女なら、体裁を取り繕っただろう。だが、それが何も生まないことを、もう知っている。
「輸送路の遅延率だけ、どうしても再現できません。過去の実績値が、どこにも残っていなくて」
「……エリシア様なら、暗算で出していたな」
ラウルは苦笑して、椅子に沈む。
その口ぶりには、恨みも皮肉もなかった。ただ、事実だけがあった。
最初の頃は、違った。
王宮の誰もが、エリシアを恨んだ。控えの一枚も残さずに去った、冷たい令嬢だと。マリアンヌ自身、断罪の夜に「控えを」と縋って、静かに首を振られた側だ。あの拒絶を、長いあいだ許せなかった。
けれど、実務の底が抜けたまま半年を過ごすうちに、恨みは少しずつ形を変えた。
――なぜ、彼女は渡さなかったのか。
答えは、単純だった。
渡す理由が、なかったからだ。
王宮は、エリシアという人間ではなく、エリシアが扱う数字だけを必要としていた。都合よく使い、都合よく無視し、いざとなれば地味だと切り捨てた。
それでいて、彼女が去った途端に「控えを寄越せ」と手を伸ばす。
もし自分がエリシアだったら、と、マリアンヌは何度も考えた。
自分だったら、渡しただろうか。
渡さない、と、今なら思う。
それは復讐ではない。
ただ、誰に数字を渡すかを、自分で決めただけだ。
マリアンヌは、机の抽斗から、一冊の古い帳簿を取り出す。
エリシアが使っていた、参照用の抜粋だ。原本ではない。彼女が置いていった、わずかな痕跡。
その余白には、短い書き込みがいくつも残っている。
『王宮要請:拒否』
『輸送路B:冬季は使うな。実績が嘘をつく』
『責任者:不明。要確認』
感情は、どこにもない。
あるのは、記録だけだ。
マリアンヌは、その筆致を、指でなぞる。
彼女は、この抜粋を、遺書のように読み解いてきた。
どの数字を、どの順で、どう疑えばいいのか。エリシアが何を見て、何を見なかったのか。
そうして半年かけて、マリアンヌはようやく、あの夜の言葉の意味に追いついた。
――恐れるべきは感情ではありません。数字です。まず、誰が責任者かを確認してください。
あのとき、彼女は蒼白な顔で控えを求めた。
だがエリシアが差し出したのは、控えではなく、順番だった。
感情を脇に置け。数字を見ろ。そして、誰が責任を負うのかを、まず確かめろ。
それは、突き放しではなかった。
たった一つ、彼女が置いていってくれた、引き継ぎだったのだ。
「ラウル様」
マリアンヌは、顔を上げる。
「輸送路の遅延率、実績が残っていないなら、これから取ります。今年の冬から、路線ごとに、日数を記録します。三年分溜まれば、再現できます」
「三年、か」
「はい。三年です」
ラウルは、しばらく彼女を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……速い解決ではないな」
「速い解決は、たぶん、また同じことを起こします」
マリアンヌは、静かに言った。
その言葉が誰の受け売りなのか、彼女は自分でも分かっていた。
午後。
彼女は、白紙の整合表を、一枚だけ作った。
立派なものではない。北方の輸送路、たった一路線分の、小さな表だ。
いちばん上の欄に、彼女は名を書き入れる。
『責任者:マリアンヌ・フェルゼン』
これまで、その欄はずっと空白だった。
誰かが埋めてくれるのを、みなが待っていた。空いた木製の椅子を、誰も座らないまま見つめていたように。
もう、待たない。
この一枚が正しいかどうかは、分からない。三年後、実績が嘘をつくかもしれない。
だが、少なくとも――誰が責任を負うのかは、もう空白ではない。
窓の外を、王都の風が抜けていく。
地方では、エリシアの作った公開の仕組みが、静かに根を張り始めていると聞く。
いつか、その記録の網が、王都のこの小さな表にまで届く日が来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
どちらでもいい、と、マリアンヌは思う。
届くかどうかを決めるのは、自分ではない。
自分にできるのは、ただ、正しく記録を残しておくこと。
彼女は、帳簿を閉じた。
それは復讐ではない。
ただの、引き継ぎだった。
第1話・第2話で控えを求めて首を振られた書記官の、その後です。控えの代わりに渡されたのが順番だったと気づくまでを書きました。王宮側のざまぁは、こういう形で払われます。次は最終話から半年ほど先、二人の後日談です。公文書の体裁で来た私信が一枚、混ざっています。ブックマークと評価は、マリアンヌの新しい整合表の一枚に、一路線分だけ書き入れておきます。




