第104話 選び終えた先に
それから、季節が一つ巡った。港の風の向きが、去年と同じ時期に同じように変わった。
港は変わらず動いている。公開枠組みは日常の一部になり、人々はそれを特別なものとして扱わなくなった。誰も名前を呼ばなくなったものが、いちばん長く続く。それが、一つの完成だった。
ハルフェン本部。エリシアの机の上には、決裁書ではなく報告書が並んでいる。制度の最前線ではなく、少し引いた場所。設計者としてではなく、監査と助言の立場。それが今の役割だった。
「最近は落ち着きましたね」
ヴァルドが言う。落ち着いた、という言葉を、彼はもう疑わずに使う。
「ええ」
「問題が消えたわけではありませんが」
「消えることはありません」
エリシアは微かに笑う。消えることはありません、と答えるのに、以前ほど力が要らなくなった。
「それでいいんです」
問題があるから、選び続ける。
午後、久しぶりにあの場所へ向かった。最初に追放されて降り立った、港の外れ。今では整備され、穏やかな遊歩道になっている。石畳は新しく、あの日に踏んだ土は一寸も残っていない。
風はあの日と同じだ。ただ、自分が違う。
「……来ると思っていた」
振り向くと、レオンハルトが立っていた。驚きはない。ただ、自然に受け入れる距離だった。
「ここに来ると、原点を思い出します」
エリシアが言う。原点、という言い方を、二年前ならしなかった。
「あの日、何もなかった場所です」
「今は、すべてがある」
王子が応じる。すべてがある、という言い方に、彼自身は入っていない。少しの沈黙があった。
「制度は安定した。だが、完成ではない」
「ええ。完成はしません」
それは、もう互いに分かっている。
「だから、私は一歩引きました」
エリシアが言う。一歩引きました、と口に出すのは、これが初めてだった。
「制度は私のものではないからです」
王子は小さく頷く。
「正しい判断だ。お前がいなくても動くなら、本物だ」
風が吹く。灯りが揺れる。
「一つ、報告があります」
彼女は言った。
「先月、私の綴りに二年ぶりの行が入りました」
「例の、名前が一つの紙か」
「はい。港湾の再教育枠に、本人が申し込みました。四十九歳です」
二年ぶんの空欄の下に、一行だけ足した。足すのに、四半刻かかった。
「戻ったのか」
「まだです」
エリシアは答えた。
「申し込んだ、というだけの行です。ですが、空欄ではなくなりました」
王子は、しばらく海のほうを見ていた。空欄ではなくなりました、という言い方の意味を、彼はもう説明されなくても分かる。
「……もう一度、言わせてくれ」
静かな声だった。もう一度、と前置きしたのは、一度目が届いていないと自分で思っているからだ。
「私は間違えた。お前を手放したことも、理解しなかったことも」
エリシアは何も言わず、聞く。遮れば、この人はもう二度と同じことを言わない。
「だが今は」
少しだけ言葉を選ぶ。選んでいる時間の長さで、用意してきた言葉ではないと分かった。
「お前の隣に立ちたいと思っている」
命令ではない。提案でもない。ただの願いに近い。願いは、断られる形をしている。
「以前のような関係ではなく、対等な立場で」
静かな風。エリシアは、ゆっくりと息を吐く。
あの日は、選べなかった。今は、選べる。
「私は、誰かに選ばれるためには生きません」
「知っている」
すぐに返る。
「だから、自分で選びます」
一歩だけ近づく。
「あなたの隣に立つことも、立たないことも」
王子は微かに笑った。立たないことも、という半分を、彼は聞き流さなかった。
「では、どうする」
少しの間。そして。
「今は」
エリシアは答える。
「隣を歩くところから始めましょう」
婚約ではない。約束でもない。だが、以前より確かな関係だった。名前が無いぶん、壊れ方も決まっていない。
王子は頷いた。
「それでいい」
並んで、同じ方向を見る。港の灯り。動き続ける制度。揺らぎ続ける世界。
「公開は正義ではありません」
エリシアが言う。
「ですが、隠せば責任は消えます。だから私は選びました」
風が吹く。灯りが揺れる。だが、消えない。
「これからも選び続けます」
制度も。人も。自分自身も。
その先に、完成はない。だが、選び終えた場所はある。ここに。
遊歩道を戻るとき、エリシアはふと足を止めた。
「ひとつ、伺い忘れていました」
「何だ」
「あの整合表は、どうなりましたか」
王子は、意表を突かれた顔をした。整合表、という言葉が出てくる場面ではなかった。
「……第二案の、か」
「はい。三日後に提出予定だった、北方辺境防衛費の」
彼はしばらく考えて、正直に言った。
「知らない」
「そうですか」
エリシアは頷いた。それ以上は聞かなかった。
王子のほうが、しばらく黙っていた。
「調べる」
彼は言った。
「時間はかかる」
「構いません」
二人は、また並んで歩き出した。
本編は、ここで一区切りです。第1話で放り出された港の外れに、最終話で並んで戻ってくる。それだけを決めて書き始めた話でした。ここから閑話が二話挟まります。第105話は王宮に残った書記官マリアンヌの視点、第106話は最終話から半年ほど先の、二人の後日談です。そのあとで第2部が始まります。制度が設計者を必要としなくなったあと、その制度を見張るのは誰なのか。今度はエリシアが、検査される側に回ります。ブックマークと評価は、遊歩道の灯りの油代に回します。どの予算から出ているかは、第106話でエリシアだけが知っています。




