第103話 それぞれの場所
教育分野の修正から、数週間。大きな混乱は起きていない。
支援指標は静かに機能し、学校への資源の配分も改善し始めている。目立たない。だが、確かに変わっている。目立たない変化は、報告書の三行目より下に載る。
ハルフェン本部で、ヴァルドが報告をまとめていた。
「教育分野、安定して推移しています。批判は残っていますが、拡大はしていません」
アルノーが続ける。微増、という語を、彼は慎重に使う。
「市場にも影響なし。むしろ、制度が分野ごとに調整されたことで、信頼は微増の傾向です」
エリシアは頷いた。派手ではない。だが、壊れてもいない。この二年で、いちばん欲しかった報告の形だった。
「制度は、広がりましたね」
ヴァルドが言う。
「ええ。ですが、同じ形ではありません」
港、国家、教育。それぞれ違う設計だ。それでいい。同じである必要はない。同じにしようとしたときに、いつも何かが折れた。
その日の午後、エリシアは久しぶりに港を歩いていた。貨物の音、人の声、潮の匂い。すべてが、最初にここへ来た頃とは違う。桟橋の板は張り替えられ、荷の積み方まで変わっていた。
だが、変わらないものもある。風だ。灯りだ。人の営みだ。
ふと、声がかかった。
「覚えていますか」
振り向くと、ヨナス・レントだった。荷を一つ提げている。馬車で二日の道を、今日は自分で来たらしい。
「簡易公開、助かっています。少しずつですが、取引も戻ってきました」
深く頭を下げる。角度は、リーデン町で会ったときと同じだった。
「まだ課題は多いですが」
「それで十分です」
エリシアは答える。
「制度は完成しません。続けることが大切です」
「書式の日数、今年は十九日でした」
彼は言った。数字から入るところが、この人らしい。
「去年は二十三日です。四日、工房が回りました」
「四日で、何ができますか」
「一人ぶんの、冬の靴が二十足です」
ヨナスは笑った。二十足、という数を、待っている人の顔まで数えている笑い方だった。
「それでも、始めることができました」
それだけで、意味がある。四日は、どの指数にも出ない。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
エリシアは言った。
「書式を整えている三人のうち、二人は工房を持っているとおっしゃいました。三人目は」
「うちの母です」
ヨナスは答えた。
「六十一です。字がいちばん綺麗なので」
「その方の日数は、どこに載っていますか」
彼は少し考えた。三人目、と言われて、初めて数え直した顔をした。
「載っていません。工房が止まらないので」
エリシアは頷いた。
「では、欄をもう一つ作ります」
「まだ増やすんですか」
ヨナスが笑う。まだ増やすのか、という言い方に、嫌そうな響きはない。
「増やします。減らすのは、埋まってからです」
港を歩きながら、エリシアは思う。制度は、人を変えない。だが、人の選択を変える。そしてその選択が、少しずつ世界を変える。少しずつ、というのは、生きているあいだには終わらない速さのことだ。
夕方、王宮へ戻る途中。遠くにレオンハルトの姿が見えた。こちらに気づき、軽く手を上げる。
以前のように呼び止めはしない。ただ、同じ方向を見ている。それでいい。距離はある。だが、離れてはいない。距離があることは、この関係の欠点ではなかった。
エリシアも小さく頷き、歩みを進めた。
執務室に戻ると、机の隅に、紐で括った古い帳簿が二冊、置いたままになっている。一度目と、二度目。
持ち主は、見たくないと言った。だから、まだ返していない。返せないまま持っているものが、この仕事にはいくつかある。数えたことはない。数えれば、返しに行く順番を決めなければならなくなる。
彼女は二冊を引き出しにしまい、鍵はかけなかった。
ヨナスの母上の日数は、工房が止まらないから載っていません。載らないものを見つけるたびに欄が増える設計は、綺麗ではありませんが、この作品ではそれが正しい形です。冬の靴の数は、この物語で数少ない、数字が人に還った場面でした。次回、季節が一つ巡ります。本編最終話です。港の外れの、あの何もなかった場所へ、エリシアが向かいます。




