沈黙の記憶
雨が降っていた。
イサナは駅から外れた道を、ただ矢印に従って歩いていた。
スマートコンタクトが示す座標は、都市から外れた丘の先
すでに地図からも外された灰色の空間だった。
建物が見えてきた。
小さく、低く、土に埋もれかけた研究施設のような構造。
《旧文化資源調査センター》
錆びついたプレートが入口の壁に斜めに打ち込まれていた。
人が出入りした形跡はない。
だが、扉はほんのわずかに開いていた。
イサナはその隙間を押し広げ、中へ入った。
中はひどく静かだった。
電子音も、空調の風も、何もない。
それでも空間全体が“生きている”ような気配だけが漂っている。
通路の奥に、展示スペースらしき部屋があった。
崩れかけた棚。
落ちたガラスパネル。
書きかけの研究記録らしき紙片が、床にへばりついている。
その中央
ひとつだけ、割れかけた展示ケースがあった。
中にあったのは、黒く焦げた石板。
明らかに古代のもので、炭化したような質感と、表面に掠れた紋様だけが残されている。
イサナが手を近づけた、そのとき。
視界が白く弾けた。
夕暮れの風。
石造りの広場。
空を仰ぐ影たちの列。
その中心に、彼がいた。
ジェイバー。
背を向けているのに、わかった。
その気配が、空気の圧力が、記憶の深部と重なっていた。
「……全部、残すよ。誰かが拾うように、って」
彼の声が、どこからともなく響く。
周囲には他の原初種らしき影がいた。
皆、疲れきったような顔をしていたが、最後の何かを託すように頷いている。
ジェイバーは、その石板のようなものに触れていた。
「ここに刻んでおく。記録じゃない。“感覚”をね」
そして彼は、ふとこちらを見た。
それは記憶の中の“彼”のはずなのに、
なぜか、イサナの“今”を見ている気がした。
イサナは気づけば、地面に膝をついていた。
ガラスの破片が近くに転がっている。
黒い石板は、割れたケースの中で、ただ静かに横たわっている。
何も語られていないはずなのに、
何かが確かに“伝わってきた”。
自分は、偶然この記憶を見たのではない。
それは“誰かが残した感情”だった。
明確な言葉も記号もないのに、心がそれを理解していた。
イサナは立ち上がった。
そしてそっと呟いた。
「……ジェイバー」
雨は、まだ降っていた。
だがその音さえ、今は“言葉”のように聞こえた。