自由とは
イサナは喫茶店の窓際に座っていた。
テーブルには飲みかけのコーヒー。
向かいにいるのはリョウだった。
高校の頃からの友人で、いつも何かと理由をつけて会いに来るやつだった。
「相変わらず難しい顔してるな」
リョウは笑いながらカップを傾ける。
「最近みんな薬もらってるだろ。あれ、飲むと本当に楽になるらしいぞ。
考えすぎると体壊すからさ」
イサナは窓の外へ視線を向けた。
「……みんな、それで満足してるのか」
「満足してるよ。当たり前だろ」
リョウは笑って、指先でテーブルを軽く叩く。
「俺たちが考えなくても、誰かが考えてくれる。
誰かが間違わないようにしてくれてる。
だから俺たちは、笑っていればいい」
その言葉はあまりに穏やかで、
まるで子どもを寝かしつけるような優しさがあった。
イサナは少しだけ目を伏せる。
「それは……幸せなのかもな」
「だろ?
知らないって、悪いことじゃないんだよ。
知ると苦しくなる。
だから俺は、もう十分だって思ってる」
リョウの声には温度があった。
心のどこかで、その平和を否定できない自分がいた。
外へ出ると、風が甘い匂いを運んできた。
街角では薬の配布所が開かれている。
『精神干渉防止薬 無料配布中』
白い幕が風に揺れ、
人々が笑顔で薬を受け取っていく。
リョウもその列へ加わった。
「これ飲むと楽になるんだよ。
変な夢も見なくなるし、余計なことも考えなくなる。
それって、すごいことだと思わない?」
イサナは答えなかった。
空には『幸福指数 上昇中』の文字が浮かび、
スピーカーから穏やかな音楽が流れている。
誰もが穏やかで、
誰もが満たされていた。
世界は幸福だった。
その幸福が嘘ではないことを、
イサナは理解していた。
だからこそ、苦しかった。
「……確かに、きれいだな」
リョウが振り返る。
「だろ?」
「でも、きれいすぎる」
「何が悪い?」
「傷がないってことは、
誰も本気でぶつかってないってことだ」
リョウは笑って肩をすくめた。
「お前は昔からそうだな。
正しいことは言ってる。
でも、それじゃ誰も救えない」
その言葉が胸の奥へ刺さった。
イサナは静かに息を吐く。
「……たぶん俺は、
正しくありたいんじゃない。
本当でありたいだけなんだ」
リョウは目を細めた。
「本当なんてどこにある?
みんなの幸せの方が大事だろ?」
「違う。
幸せは作れる。
でも、真実は作れない」
リョウは何かを言いかけた。
その時、遠くでアナウンスが響く。
【思考干渉防止区域を拡大します】
空が白く光り始める。
人々の笑顔が、一斉に同じ方向へ向いた。
その光景を見つめながら、
イサナは静かに呟く。
「自由って、何だろうな」
リョウは迷わず答えた。
「余計なことは考えず、
選ばなくていいことだよ」
イサナは首を横へ振る。
「選び続けることだよ」
その瞬間、
リョウの笑顔がほんの少しだけ揺れた。
夜。
部屋の明かりは消えていた。
窓の外では、同期衛星の青い軌道がゆっくりと流れている。
イサナは机へ手をつき、小さく息を吐いた。
コンタクトのUIが勝手に点灯する。
【幸福度:安定】
【思考干渉:軽度検知】
【抑制プログラムを起動しますか?】
「……いいよ。
起動しなくて」
【確認:自由意志による選択ですか?】
「自由意志?」
イサナは小さく笑う。
「その言葉に、まだ意味が残ってるなら。
そうだって答えるよ」
机の上の本が微かに光る。
『世界の真実と命の意味』
その文字は呼吸をするように脈打っていた。
「知ることは痛みだ。
でも、知らないことはもっと痛い。
だから俺は進む」
【プロトコード:再起動を検出】
視界が白く弾ける。
音が遠ざかる。
心臓の鼓動だけが、世界の中心になった。
自由とは、
選べることじゃない。
選び続けることだ。
無知を選ぶ者も、
真実を選ぶ者も、
どちらも幸福を願っている。
けれど、
無知の幸福は、
他者が守る世界でしか生きられない。
真実の痛みは、
自分でしか耐えられない。
だからイサナは進む。
世界の誰もが立ち止まる、その先へ。
痛みを抱いて、
それでも自由であるために。




