彼らの歩いた道
本は、思ったよりも軽かった。
ページを開く動作に、何の抵抗もなかった。
けれど、その内容は、重さそのものだった。
最初の数ページには、何も書かれていない。
罫線も活字もなく、ただ古びた紙の肌だけがそこにあった。
だが、ページ進めるうちに、何かが流れ込んでくる。
言葉ではない。
映像でも音声でもない。
それは“記憶”の感覚に近かった。
誰かが見た風景、感じた温度、息を殺す鼓動
それらがイサナの中に、まるで自分の記憶であるかのように再生された。
夕暮れ。
森の奥の集落。
焚き火の周りで語らう人々。
瞳が異様に澄んでいる
いや、深く静かに光っていた。
次の瞬間、風景が崩れる。
叫び声、炎、引きずられる身体。
どこからか“焚書”のような怒号が響き渡る。
追われる彼ら。
一人、また一人と倒れていく。
彼らの壮絶な日々の視界。彼らの運命だった。
黒く錆びた廃ビル。
すでに文明の影が消えかけた都市の外れ。
ある種の“座標”のように、それはイサナの中に残された。
目を開けると、あたりは静まり返っていた。
まだ本屋の中。
手には、あの本。
けれど、確かに自分ではない誰かの記憶を“見た感覚が、濃密に残っている。
イサナは本を閉じ、深く息を吐いた。
それが何だったのかはわからない。
だが、自分の中に引き継がれた何かがあることは、否定できなかった。
「……これが、“彼らの歩いた道”……?」
呟いた声は、誰にも届かないはずだった。
けれど、すぐ後ろから扉が開く音がした。
振り返ると、一人の男が入ってきた。
スーツ姿。表情の薄い中年。
手には何も持っていない。ただ静かに店内を見渡している。
イサナと視線が一瞬だけ交錯する。
男は、軽く会釈をして、何も言わずに棚の方へ向かっていった。
……客だ。
だが、どこかが妙だった。
自然すぎる所作。気配のなさ。
むしろ、自然すぎて不自然だった。
イサナは、本をそっとカバンの中に滑り込ませた。
この世界には、すでに管理されている“何か”がある。
そう思わざるを得なかった。
それが何なのかを知るには――
この記憶の続きを、追うしかない。
「俺の中には……何が隠されてる?」
誰にでもない問いが、ゆっくりと彼の胸の奥に落ちていった。