無限の想像力
床に倒れたままイサナはしばらく動けなかった。
本は黒く焦げ部屋の空気は金属の匂いで満たされている。
テレビは暗いままスマートコンタクトのUIだけが静かに点滅していた。
【記憶干渉:継続中】
【安全モードに移行しますか?】
イサナは迷わず囁いた。
視界の右上で文字が消え音も消えた。
ただ自分の心臓の音だけが響いている。
朝。
外の空気はいつも通りでどこか作られた静けさを保っていた。
街頭のモニターでは落ち着いた声のニュースが流れている。
「昨夜から一部エリアで集団無表情同時行動といった症状が報告されています。専門家は精神感染の可能性を指摘」
立ち止まってモニターを見る人々。
全員が同じ角度で同じタイミングで瞬きをする。
古びた本屋の前に着く。
昨日と同じ札がかかっていた。
営業中とあるのに照明は半分しか灯っていない。
カウンターの奥。
非売棚に一冊だけあの本。
『世界の真実と命の意味』。
店主の姿はない。
レジの脇に紙が一枚置かれていた。
すぐ戻るとだけ書かれている。
扉のベルが鳴った。
二人の客が入ってくる。
地味な服装の男女。静かで感じが良い。
彼らは笑顔で挨拶し店の奥を何気なく見回した。
「珍しい本が多いですね」
「落ち着きますねここ」
自然すぎる会話。
だがその声の均一さがイサナの背中に違和感を残した。
イサナはカウンターの奥に手を伸ばした。
指先が背表紙に触れた瞬間神経を直接撫でるような痛みが走る。
静電気ではない。
それはもっと内側の何かに触れる感覚だった。
ページを開く。
焼けた紙の隙間に淡い光が滲む。
視界が揺れ脳の奥で脈打つような音が響いた。
【記憶干渉:開始】
光が弾ける。
そして誰かの記憶の中へ
薄い朝の光が部屋に差し込んでいた。
壁には乾いた花。テーブルには二つの湯呑み。
若い男女が並んで座っている。
女は柔らかく笑いながら男の手を握った。
「ねえこんな日がずっと続けばいいね」
「……そうだな。きっと続くよ」
彼らの心は何も遮られていなかった。
言葉の奥の想いまでもがまるごと伝わる。
互いの痛みも孤独も世界の悲鳴も。
すべてが同時に流れ込む完全な共感。
それは幸福であると同時に地獄でもあった。
夜。
雨が降っていた。
女は膝を抱え震えていた。
「……他の人たちの声が聞こえるの。
知らない人が苦しんでるのに止められない。
世界の痛みが胸の奥で鳴ってる。」
男は隣に座り彼女の手を包んだ。
「大丈夫だ。ここにいる俺がいる。」
彼女は首を横に振る。
「違うの。あなたの痛みも全部わたしに来るの。
あなたが泣くと私の中で何かが崩れる。
あなたを愛しているのに
その愛が私を壊していく。」
雨の音が強くなった。
言葉が消える。
ただ沈黙の中でふたりの心臓の音だけが重なっていた。
そして彼女は静かに立ち上がった。
窓の外灰色の空を見上げ微笑む。
「ごめんね。
これ以上誰かの痛みを感じたくないの。」
男が手を伸ばした瞬間彼女は振り返らず
白い光の中へ身を投げた。
世界が止まった。
雨の音が途切れた。
男は床に崩れ落ち
震える手で彼女が座っていた場所をなぞった。
まだ温もりが残っている気がした。
「……置いていくなよ。」
声が掠れる。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
彼はゆっくりと立ち上がり
窓の外を見つめる。
「この痛みが続くくらいなら
一緒にいた方がいい。」
男は一歩踏み出した。
視界が真っ白に弾ける。
イサナの呼吸が荒い。
胸が締め付けられ喉の奥が焼けるように痛い。
手の中の本が震えている。
ページの隙間から淡い光が漏れ
床に白い影を落としていた。
〜モノローグ〜
愛は生きる理由にも壊れる理由にもなる。
考えることは痛みを知ること。
けれど痛みの中には確かに生があった。
彼らはそれでも愛した。
だからこそ封印は生まれた。
それが彼らの歩いた道。
思考に制限がない...
それはすなわち無限の想像力を生み自分以外の痛みすらも感じてしまう事。
そしてこの時
イザナはこのことをもっとよく考えるべきだったんだ。




