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ミズホ、変容

 ──今日の私、絶対普通じゃなかった。


 ユズルが寝静まった暗い部屋で、ミズホはうずくまっている。彼女はもう二時間以上も自問自答を続けている。


 今夜、夫は出張で不在。掛け時計の針が刻む規則正しい音だけが、無機質に部屋の中を過ぎていく。


 自宅では「普通」でいる必要はない。でも今日だけは違った。


 ミズホは別に、ユリの不幸を面白がっていたのではない。ただ、尾行というものをやってみたかったのである。未知の分野のことを体験してみたい、という純粋な好奇心がさせた行動だった。


 しかしあれだけのはっちゃけぶりを晒してしまったのだから、言い訳なんてできるはずもない。

 既にあの動画はユリに送信してしまった。彼女は、どんな思いでそれを見るだろう。今後、どんな顔をしてユリに会えばいいのか。

 今すぐ家を裸足で飛び出して、叫びつつ頭を掻きむしりながら、二キロ先の雑木林まで全力で駆け、一番高い木に登って地球回りを何度でも何度でも繰り返したい気分だった。


 ──普通じゃない普通じゃない普通じゃない普通じゃない! お前は普通じゃないんだ!!


 ミズホは体操座りをして自分を責め続けた。


 十二時を過ぎた時、目の前の闇の中に、ぼんやりと浮かんだものがある。


 黒っぽい顔に丸い大きな目がギラギラと光り、短髪で眉が濃く、厚い唇を持つ人物。純白のスーツに覆われがっちりと引き締まった上半身の下は、闇に溶けている。もしかすると上半身だけの存在なのかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。


 ──あっ、「彼」だ……!


 ミズホの前に「彼」が現れるのは三度目だ。一度目は害虫の悪夢で苦しんでいる時、二度目は面接に立ち続けに失敗して落ち込んでいる時、つまり、いつも苦境に立たされている時に現れるのだった。

「彼」は出て来るたび、ミズホの相談に親身に乗ってくれ、有益なアドバイスもしてくれる貴重な存在だった。


 彼は言った。


 ──オマエのしたコトは、サイテーダ。


 当然の指摘に、ミズホは頭を抱え「ああぁぁ……」と呻いた。「彼」はいつもの片言で続ける。


 ──ダガ、過去は変えられナイ。重要なのハ、これからオマエがどうするかダ。


「私は普通じゃないんです……もうユリさん達とうまくやっていけるはずなんてないです、だって、普通じゃないんだから……」


 ミズホはホテルの駐車場で嬉々として「修羅場ナーウ!」と叫んだことを思い出し身悶えた。


 ──とりあえず昨日のコトは全て忘レロ。忘れテ、今後うまくやればイイ。


「でも、怖いです。許してもらえたとしても、また何かやらかしたら……」


 いっそのこと、ユリともマミコとも会うのをやめてしまおうか。


 ──ユズルのことを考エロ。


 ハッとしてユズルを見た。彼はミズホの隣で平和な寝息を立てている。


 ユズルは一人遊びが好きだが、ハルやケイタに会うと年相応に嬉しそうにする。

 息子には自分のようになってほしくない。人とたくさん触れ合って、コミュニケーション能力を養ってほしかった。


 ──オマエが世の中に合わせようとするから苦しいノダ。世の中をオマエに合わせロ。


「で、でも。どうやって……」


 ──解決法が一つアル。全てをいっぺんに解決スル方法ダ。聞きたいか?


 ミズホはライブ中に佳境を迎えたハードロックバンドのベーシストみたいに、頭部をブンブンと上下に振った。


 ──虫の素晴らしさをマミコたちに広メロ。


「虫の……素晴らしさ……」


 バカみたいにミズホは復唱する。


 ──手始めにツルグレン装置なんてドウダ?


 ツルグレン装置……!! 


 その言葉はミズホの脳内に、天啓みたいに響いた。


 ──一度きりの人生ダ。好きに生きロ。


「彼」は小さく微笑むと、スーッと闇の中に消えていった。


 ツルグレン装置とは、一言でいえば土壌生物を採集する装置である。


 実は心の奥底で、ミズホはずっと我慢していたのだ。あの公園の端には、夏でも落ち葉がほどよい層となって堆積しているゾーンがある。土壌生物の採集にうってつけの場所なのだ。うまくいけば、カニムシなんかが見つかる可能性もある。


 明日は朝から装置の作製に取りかかろう。今度、ユリ達にも見せてあげよう。

 考えるだけでウズウズする。


 ミズホはその後も、なかなか寝付けなかった。

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