第一章 第五節 社会人一年生
2001年3月中旬。旧帝大の卒業式の日、キャンパスは春の光に包まれていた。
天城香織は、学位記を胸に抱えながら、ゆっくりと校門を歩いた。
研究室の仲間たちが写真を撮り合い、笑い声が響く。
その中で、相沢絢香が香織に近づいた。
「香織、卒業おめでとう。」
「絢香も、おめでとう。」
絢香は微笑む。
「私は大手メーカーに行くわ。研究職で、材料開発の部署。」
「すごいですね。」
「あなたも頑張って。……また会いましょう。」
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## ** 旅立ちの日 **
卒業式の翌日。
香織は、東亜機工の工場近くで一人暮らしを始めるため、実家を出る準備をしていた。
玄関には、家族が揃っていた。
母は、涙をこらえきれずに言った。
「香織……本当に行っちゃうのね……」
「お母さん、会社が遠いから……」
「分かってるけど……寂しいわ。」
母は香織を抱きしめた。
兄は、段ボールを持ちながら冷やかす。
「一人暮らし? すぐ帰ってくるんじゃないの?」
「帰ってこない!」
「どうだかなぁ。料理できないくせに。」
「できるもん!」
「カップ麺は料理じゃないぞ。」
「兄さんは黙ってて!」
兄妹喧嘩が始まり、母が慌てて止める。
父は、静かに工具箱を差し出した。
「香織。」
「……これ、父さんの?」
「いい道具は一生使える。 技術者なら、自分の道具を持て。」
香織は工具箱を両手で受け取った。
「ありがとう……大切にする。」
父は微笑んだ。
「頑張れ。お前ならできる。」
その言葉は、香織の胸に深く刻まれた。
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春の朝。
東亜機工の門をくぐった瞬間、
香織は息を飲んだ。
切削油の匂いが鼻をつく。
(ここが……私の働く場所。)
新人研修が始まり、工場長が説明をする。
「生産技術は図面を書く仕事じゃない。
現場と一緒に汗を流す仕事だ。」
香織は真剣に頷いた。
周囲の新人たちは、緊張した面持ちで工場を見渡している。
その中で、ひそひそ声が聞こえた。
「ねぇ、あの人……坂本主任だよ。」
「怖いって有名。新人は近付くなって言われてる。」
「目つけられたら終わりだぞ……」
香織は、その噂の人物を見た。
短髪で引き締まった体つき。
鋭い目つきだが、どこか静かな雰囲気をまとっている。
香織は、図面を見ながら首をかしげた。
「主任……。」
「何だ。」
「ここなんですが……少し気になって。」
坂本は図面を受け取った。
「……どこが気になる。」
香織は図面を指差す。
「ここの寸法、加工順と合ってません。
このままだと、段取り替えが増えて……」
主任は図面をじっと見つめた。
周囲の新人たちは固まった。
(やばい……主任を怒らせた……)
しかし――
しばらく沈黙が続いた。
坂本は静かに言った。
「……三十分後、加工ラインへ来い。」
「え?」
「来い。」
その一言で、空気が変わった。
それだけ言って歩き去った。
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研修が終わる頃には、香織は毎日のように坂本へ質問を持っていった。
「主任、質問です!」
「……図面持ってきて。」
「はい!」
「その治具は使わない。理由は分かるか。」
「えっと……加工精度が……」
「図面だけじゃ分からん。現場へ行くぞ。」
坂本は、香織を現場へ連れていき、
実際の機械を見せながら説明した。
香織は、目を輝かせながらメモを取った。
坂本は、そんな香織を見て思った。
(……本当に、現場が好きなんだな。)
香織は今日も図面を抱えて坂本の後を追った。
だが――
この出会いが、
香織の人生を大きく変えることになるとは、
まだ誰も知らない。
そして――
やがて、その人を失う日が来ることも。




