第一章 第二節 就職氷河期
4年後、西暦2000年10月。就職氷河期の真っ只中。
大学院修士2年の秋は、研究と就職活動の両方が学生たちを追い詰めていた。
研究室の掲示板には、「推薦枠終了」の紙が何枚も貼られている。
一枚剥がされるたび、誰かの希望も消えていく。
研究棟の廊下には、面接帰りの学生たちのため息が漂っている。
「また落ちた」「推薦でもダメだった」――そんな声が日常になっていた。
しかし、この日だけは研究棟の空気が違った。
司会者の声が講堂に響いた。
「次は天城香織さん。発表をお願いします。」
香織は小さく息を吸った。
修士課程の集大成とも言える研究発表会。
教授陣だけでなく、企業の採用担当者も見学に訪れる。
天城香織 VS 相沢綾香 ――研究テーマ発表
天城香織は、緊張で手が少し震えていた。
壇上のスクリーンには、彼女の研究テーマが映し出されている。
「多品種少量生産における工程設計と品質管理の最適化」
地味だが、現場に直結するテーマ。
教授陣の評価も高い。
発表が始まると、香織の声は不思議と落ち着いていた。
「本研究では、工程設計の最適化により、歩行距離を年間100km削減できる可能性を示しました。また、品質管理の統計的手法を導入することで――」
会場が静まり返る。
教授たちが真剣にメモを取っている。
質疑応答では予定時間を超える質問が相次いだ。
発表が終わると、拍手が起きた。
その直後、次の発表者が壇上へ向かう。
相沢絢香。
長い黒髪、完璧なメイク、落ち着いた佇まい。旧帝大工学部の「完璧な優等生」。
絢香の研究テーマは、生体材料工学。華やかで、最先端で、企業からの注目度も高い。
発表は見事だった。論理構成も、資料も、話し方も完璧。
だが――
現場改善への実用性と独創性が決め手となり、最優秀発表は香織に決まった。
握手 ――一生の縁となる瞬間
発表会が終わり、学生たちが会場を出ていく中。
絢香が香織の前に歩み寄った。
「天城さん。」
香織は少し身構える。
絢香は、ふっと笑った。
(……やっぱり、研究では敵わない。)
「今日は完敗。あなたの研究、すごく良かった。」
その言葉は、嫉妬も悔しさも含んでいなかった。
ただ、純粋な称賛だった。
絢香は右手を差し出す。
「これからも、互いに高め合えるといいわ。」
香織は戸惑いながらも、その手を握り返した。
その瞬間――二人の間に、静かだが強い絆が生まれた。
この握手は、長い縁の始まりだった。
講師への感謝
発表会の片付けが始まる頃。
香織は、会場の隅に立つ和服姿の女性を見つけた。
歴史文化論の講師
「先生!」
香織は駆け寄る。
「研究テーマの構成、アドバイスありがとうございました。先生の言葉がなかったら、ここまでまとめられませんでした。」
講師は静かに微笑む。
「あなたの研究は、技術史の流れを正しく理解している。それは、誰にでもできることではありません。」
「いえ、私はただ……現場の技術を歴史の流れで見たかっただけで……」
「その視点が大切なのです。」
講師の声は、どこか優しく、そして――どこか意味深だった。
香織は気づかない。
この講師との出会いが、自分の運命にどれほど深く関わるのか。
今の香織は、まだ知らない。
嬉しさと、ほんの少しの不安
研究室へ戻る途中、香織は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
自分の研究が認められた。
教授たちが褒めてくれた。
絢香が握手してくれた。
講師が優しく微笑んでくれた。
嬉しい。
本当に嬉しい。
だが――
その裏で、ほんの少しだけ不安があった。
(私は……この先、うまくやっていけるのかな。)
世渡りが下手な自覚はある。
人間関係も、恋愛も、就職活動も、得意ではない。
それでも、今日だけは胸を張っていい。
香織は、研究棟の階段を上りながら小さく呟いた。
「……頑張ろう。」
研究棟の窓の外では、秋風が色づき始めた木々を静かに揺らしていた。
発表会の熱気とは裏腹に、研究棟の掲示板からはまた一枚、「推薦枠終了」の紙が増えていた。




