第一章 第一節 研究室の変人
### 1996年 秋
研究棟の窓から差し込む午後の光が、机の上のノートを照らしていた。
材料力学の式。
荷重方向を示す矢印。
その隣には、どういうわけか古代文明の工具の構造図がある。
天城香織は鉛筆を止めた。
図をじっと見る。
もう一度、式を見る。
そして眉を寄せた。
「……やっぱり変」
鉛筆を工具に見立て、机の端へ押し当てる。
角度を変える。
もう一度押す。
首を傾げる。
「この角度じゃ、力が逃げる……」
本来なら、学部二年の学生が研究室に居つく時期ではない。
だが香織は、教授から資料整理や解析を頼まれるうちに出入りするようになり、いつの間にか窓際の空き机が定位置になっていた。
その机の上だけは、工学部なのか考古学研究室なのか分からない。
「……またやってる」
背後から呆れた声がした。
香織が振り返る。
ショートヘアに白衣。
応用生物学科の四年生、氷室冴子が腕を組んで立っていた。
「冴子先輩。ちょうどよかったです」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「これ見てください」
香織は古代工具の復元図を差し出した。
冴子は受け取る。
一秒。
二秒。
「……工具?」
「はい」
「ここ材料系の共同研究室よね?」
「はい」
「なんで紀元前の工具が出てくるの?」
「そこじゃありません」
「そこ以外にどこを見るのよ」
香織は図の柄を指した。
「この復元図、柄の角度がおかしいと思うんです」
「角度?」
「このまま使うと、力を入れるほど手首側へ逃げます」
鉛筆を机へ押し当ててみせる。
「材料を削る道具なら、もっと寝ていた方が力を伝えやすい。あるいは握り方そのものが違ったか」
冴子が鉛筆を受け取った。
同じように押してみる。
「あ」
「でしょう?」
もう一度。
「……ほんとだ」
香織の目が輝いた。
「ですよね!」
「いや、そこで嬉しそうにされても」
「復元した人が間違えたのか、それとも使い方の前提が違うのか。面白くないですか?」
「普通はそこまで考えない」
「どうしてです?」
「古代工具だからよ!」
研究室の奥から笑い声が上がった。
「また天城が始まったぞ」
「昨日は青銅器じゃなかったか?」
「教授、変なの拾いましたね」
「拾ったとは失礼だろ」
資料を抱えた教授が通り過ぎながら口を挟んだ。
その足が止まる。
「氷室」
「はい?」
「生体材料側の測定結果、あとで確認してくれ。先方から追加が来た」
冴子は肩を落とした。
「またですか。今度から締切三日前じゃなくて、一週間前にください」
「善処する」
「教授の善処は信用してません」
教授は笑って去っていった。
香織が感心したように冴子を見る。
「先輩、教授にも言うんですね」
「あんたにだけは言われたくない」
冴子は古代工具の図を机へ戻した。
「で、結局どうするの?」
「実物の寸法を調べます。できれば復元品も作ります」
「絶対そう言うと思った」
冴子は額を押さえた。
「理系の天才で、見た目も悪くないのに……ほんと残念美人よね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
研究室のドアが開いた。
「失礼します」
落ち着いた声だった。
長い黒髪を整え、控えめな化粧をした相沢絢香が、資料を抱えて入ってきた。
教授がすぐに声を掛けた。
「相沢、昨日の発表資料は良かったぞ。企業側からも分かりやすいと連絡が来ている」
「ありがとうございます。指摘いただいた箇所は今日中に直します」
「頼む」
絢香は自然に一礼した。
そのまま何人かの先輩へ声を掛け、最後に香織の机へ来る。
「天城さん、昨日の解析データ、終わった?」
「終わりました。データ、あとで渡します」
「助かるわ。ありがとう」
「いえ」
絢香の視線が机の上で止まった。
「……古代工具?」
「はい」
一拍。
「今度は何を見つけたの?」
香織は嬉しそうに復元図を持ち上げた。
「この柄の角度が――」
「待って」
冴子が止めた。
「相沢、今聞くと十五分は拘束される」
絢香は少し考えてから笑った。
「じゃあ後で聞くわ」
「はい」
「聞くんだ……」
冴子だけが呆れていた。
絢香が研究室を出ていく。
その背中を見送りながら、冴子が小さく呟いた。
「ほんと不思議」
「何がです?」
「あんたたち」
「私たち?」
「発表になれば競ってるし、成績だって似たようなもんでしょ。普通もう少しギスギスしない?」
香織は首を傾げた。
「競う相手が優秀なのは、いいことじゃないですか」
「いや、そういう問題じゃなくてさ……」
「?」
冴子は諦めたように息を吐いた。
* * *
昼休み。
学生食堂は、食器の音と学生たちの話し声で騒がしかった。
香織は学食で、高瀬真紀と向かい合っていた。
「で、昨日の続き」
「何でしたっけ」
「古代文明」
「ああ」
「なんで工学部の人間が、そこまで古代の道具に食いつくの?」
香織は味噌汁を一口すすった。
「面白いからです」
「雑だな」
「例えば青銅器だって、温度管理、鋳型の精度、冷却速度で品質が変わります。昔の人は数式を知らなくても、経験で最適条件を探していた」
箸を置く。
「つまり、今の工学とやっていることはそんなに変わらないんです」
真紀が唐揚げを口へ運ぶ手を止めた。
「昼飯で聞く話じゃなかった」
「聞いたのそっちじゃないですか」
「香織さぁ」
「はい」
「美人なんだから、たまには普通の女子大生っぽい話しなよ」
「普通?」
「恋愛とか」
「恋愛」
香織は少し考えた。
「実験データになりませんよね」
「するな、研究を」
「再現性もないですし」
「だから研究にするな!」
真紀が吹き出した。
「じゃあ好きな人は?」
「現在、被験者募集中です」
「募集するな!」
香織だけが、不思議そうに味噌汁をすすった。
「……何が駄目なんですか?」
「全部だよ」
* * *
午後。
一般教養科目の「歴史文化論」。
理系学生の間では、比較的単位を取りやすい授業として知られていた。
香織も一年の頃は、その評判につられて履修した一人だった。
それから一年半。
今では時間割に彼女の講義を見つけると、自然に選ぶようになっていた。
教壇に立つのは、和服姿の女性講師。
穏やかな物腰と静かな声。
それだけなのに、講義が始まると教室のざわめきが少しずつ消えていった。
香織はノートを開く。
講義内容を書き取りながら、その余白へ朝から気になっていた古代工具の図を描いた。
どうにも腑に落ちない。
講義が終わる。
学生たちが席を立ち始める中、香織はノートを抱えて教壇へ向かった。
「先生、少しいいですか?」
講師が顔を上げる。
「どうしました?」
香織は古代工具の復元図を開いた。
「これ、少し変なんです」
「変?」
「朝から気になっている工具があるんです。今の常識なら使いにくい。でも、復元が間違っているのか、使い方が違うのか分からなくて」
講師は図へ視線を落とした。
「では、どうします?」
「現物を見ます」
香織は即答した。
「図面だけじゃ分からないなら、実物を確かめます」
講師がわずかに微笑んだ。
「以前より、見るものが増えましたね」
「え?」
「昔なら、道具そのものを見ていた。今は、それを使った人まで見ようとしている」
講師はノートを香織へ返した。
「形には、そうなった理由があります」
香織は図を見る。
「材料かもしれない。使う人かもしれない。暮らしや用途かもしれない」
講師は静かに続けた。
「机の上だけでは分からないこともあります」
香織はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「……やっぱり、現物を見たいです」
「なら、調べてみなさい」
「はい」
香織はノートを閉じた。
「ありがとうございました」
一礼して教室を出る。
廊下の窓から、秋の光が差し込んでいた。
香織は歩きながら、もう一度ノートを開く。
古代工具の図の横へ、一行だけ書き加えた。
『分からないなら、確かめる。』
少しだけ満足そうに頷く。
「……よし」
ノートを閉じ、次の講義へ向かった
2026/08/21
説明描写が多いため、表現を変更。




