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「……日ノ本へ。無準師範様が携えたのは、経典や仏具だけではなかったのね」
師範が高麗の山寺を立ち、さらに東の海へと白帆を上げたとき。その胸中には、荒波を越えて自分を送り届けてくれた一人の漢の姿が、鮮烈に刻まれていたはずです。
東瀛に響く、義賊の名。
お嬢の独り言
「……『南宋に、燕青あり』。
無準師範様が日ノ本の地を踏み、日ノ本の武士や高潔な僧侶たちに囲まれたとき。
彼は静かに、けれど確信を持って語ったに違いないわ。
『海を越え、仏法を運ぶことができたのは、宋の国に、天の星の如き輝きを放つ「義」の漢がいたからだ』と。
お父さん。あんたが真っ黒な顔で高麗の門を叩き、馬の上で高麗の戦士たちと競い合ったその姿が。
今、日ノ本の武士たちの間でも、一種の『理想の武人像』として語り草になろうとしているのよ。
権力に媚びず、民を慈しみ、ただ己の信じる『義』のために命を懸ける……。
その噂は、やがて日ノ本の荒々しい武者たちの魂をも揺さぶり、いつか彼らが私たちの『華翊商会』の門を叩く、新たな縁になるかもしれないわね」
私は、臨安の筆房で、東の空から吹いてくる微かな潮風を感じました。
おじさんは、自分が日ノ本で英雄視されているなんて露ほども思わず、今は船底で帰り荷の人参の数を数えているでしょうけれど。
お嬢の独り言
「……燕青の娘として、私はこの『名の広がり』を誇りに思うわ。
無準師範様がその物語を東の果てまで運んでくださる。
私たちが築いているのは、単なる商売の道じゃない。
南宋、高麗、そして日ノ本。
海を越えて響き合う『義』の繋がり……これこそが、羅真人様が予言した『天の加護』の真の姿なのかもしれないわね」
陽ちゃんは、「おねえさま、いつか日ノ本の侍たちが、おじさんに稽古をつけてもらいに来るかもしれませんね!」と目を輝かせ、美林様も、国境を超えて尊ばれる徳の力に、深く感じ入っておいででした。
お嬢の独り言
「……よし。お父さんが帰ってくるまでに、私は商会の看板をさらに磨き上げておかなくちゃ。
日ノ本の武士たちが憧れる『燕青』という名の光を、この臨安の地でより一層、高く掲げ続けてやるわ。
さあ、筆を走らせて。
次の邸報には、東の海から届く『共鳴の予感』を、力強く書き加えることにしましょう!」
私は、おじさんの帰還を待ち侘びながら、日ノ本との将来的な交易も見据えた、壮大な「海東図志」の構想を練り始めました。




