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昼下がり。

風は、少しだけ強い。

戸が、わずかに揺れる。

机の上の紙が、ふわりと浮いた。


その瞬間。

蓮華の手が、すっと伸びる。

紙を押さえる。

だが、ただ押さえただけではない。

端を、内側へ折る。

風が抜ける形。

紙は、もう動かない。

その手つきは、迷いがなかった。

見ていた盧華流ろかりゅうが、

わずかに目を細める。


「……誰に教わったの?」


何気ない問い。

蓮華は、顔を上げる。


「ううん」


首を振る。


「なんとなく」


また、筆に戻る。

それで終わりだった。

盧華流は、それ以上聞かない。

聞く必要がないと、分かっている。


夕方。

柴翊が来ていた。

机の上の紙を見る。

折られた端。

風の逃げ道。

一瞬だけ、視線が止まる。

だが、何も言わない。

ただ、小さく頷く。

それだけで、十分だった。


「……ここだ」


燕青の声は、いつもより少し低かった。

臨安の外れ。

寺の裏手に、小さな墓がひとつ。

新しい土。

まだ、匂いが残っている。

私は、何も言わずに立っていた。

風が吹く。

白い紙が、わずかに揺れる。


「……母様、ここにいるの?」


口に出してから、少しだけ遅れて——

その言葉の軽さに気づく。

返事は、当然ない。

それでも、どこかで期待していた。

「……そうだ」

短い返答。

それだけだった。

私は、墓石を見る。

刻まれた名前。

盧華流ろかりゅう

知っているはずの名なのに、

どこか、遠い。


「……変だね」


ぽつりと、言葉が落ちる。


「昨日まで、普通にいたのに」


沈黙。

燕青は、何も言わない。


「……ねえ、おじさん」


少しだけ振り返る。


「母様、怒ってないかな」


風が、強くなる。

沈香の香りが、わずかに漂う。


「……何をだ」

「ちゃんと、最後まで側にいられなかったこと」


言葉にした瞬間、

胸の奥に、何かが落ちる。

それが何かは、まだ分からない。


「……怒らない」


短い答え。


「華流は、そういうやつじゃない」


それ以上は言わない。

私は、もう一度墓を見る。

そこに“いる”はずなのに、

やっぱり、実感がない。


「……じゃあ」


小さく息を吐く。


「次に来るときは、もう少し上手く書けるようになってるって、言っておいて」


誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

それでも、置いていく。

少しだけ、しゃがむ。

土に触れる。

冷たい。

その温度だけが、現実だった。

立ち上がる。


「……帰ろう」


私は、先に歩き出す。

足取りは、いつもと変わらない。

後ろで、気配が一つだけ続く。

振り返らない。

振り返ったら、

何かが変わってしまう気がした。

石段を下りる。

風が、また吹く。

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