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街は、北とは違っていた。
音が多い。
人が多い。
そして——
誰も、過去を振り返らない。
それでも三人は、そこに居場所を作った。
小さな家。
朝、戸を開けると、
隣の家から米を研ぐ音が聞こえる。
「ここなら、大丈夫そうだね」
盧華流が、そう言った日から、
少しずつ、暮らしは形になっていった。
昼。
机の上に、紙が広げられている。
「これはね、“山”」
蓮華が、筆を持つ。
少し歪んだ線。
「こう?」
「うん、いいよ」
盧華流は、すぐに否定しない。
「でも、もう少しだけ——こう」
そっと手を添える。
筆が、少しだけ整う。
「……できた」
蓮華が、小さく笑う。
「上手だよ」
その言葉は、本心だった。
夕方。
いつもの時間。
戸は、まだ開かない。
「……遅いね」
蓮華が、ぽつりと言う。
「仕事、長引いてるのかもね」
盧華流は、平静に答える。
火を起こす。
湯を沸かす。
二つの碗を用意する。
三つ目は、まだ置かない。
夜。
戸は、開かなかった。
次の日も。
その次の日も。
誰も、「来ない」とは言わない。
ただ、
三つ目の碗が、出されなくなる。
ある日。
戸を叩く音がした。
乾いた、迷いのない音。
盧華流が、静かに立つ。
戸を開ける。
そこに立っていたのは、見知らぬ男。
名を名乗る。
柴進の子、
柴翊
盧華流の表情が、わずかに変わる。
「……あの人は?」
男は、少しだけ間を置いた。
それが、すべてだった。
「燕青殿より、預かっております」
言葉は丁寧だが、重い。
「不在の折は、私が力になります」
蓮華が、後ろから覗く。
新しい人間。
だが、どこか——
終わりの匂いがした。
盧華流は、何も言わない。
ただ、一度だけ頷いた。
それで、受け入れた。
戸を叩く音は、決まって同じだった。
強すぎず、弱すぎず。
迷いのない、二度。
盧華流が戸を開ける。
「……また来たの」
言葉は淡々としている。
男は軽く頭を下げる。
柴翊。
手には、小さな包み。
「多くはありませんが」
そう言って差し出す。
断ることも、受け取ることも、
もう何度も繰り返してきた。
盧華流は、少しだけ見てから受け取る。
「……すまないね」
「いいえ」
それ以上は続かない。
だが、帰らない。
「入っても?」
「どうぞ」
家の中は、相変わらず簡素だった。
奥で、筆の音がする。
蓮華が、机に向かっている。
「……来てたの」
振り返らずに言う。
「来てたよ」
柴翊が答える。
それだけで、十分だった。
しばらくして、彼は机のそばに立つ。
紙を見る。
「“水”は、こうだ」
指先で、空中に形をなぞる。
蓮華が、それを真似る。
少し歪む。
「惜しいな」
「難しい」
「難しいな」
同じ言葉で、少し笑う。
盧華流は、その様子を見ている。
何も言わない。
だが、その視線は柔らかい。
夕方。
柴翊は、いつも日が落ちる前に立つ。
「では」
それ以上は言わない。
引き止めもしない。
「……また来る」
確認ではない。
ただの事実のように言う。
盧華流は、頷くだけ。
蓮華も、手を止めないまま言う。
「うん」
戸が閉まる。
静けさが戻る。
だが——
以前とは、少し違う静けさだった。




