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戸が閉まった音が、まだ耳に残っている。

その向こうに、もう戻れないものがあると知りながら、

足は止まらなかった。


「……行くわよ」


女将は、もう一人の娘の手を引いた。

小さな手が、必死にしがみついてくる。

廊を抜ける。

階を下りる。

外へ出た瞬間、空気が変わった。

人が、流れている。

押される。

叫び声。

誰かが転ぶ。

誰も振り返らない。


「離すな」


女将は短く言う。

娘の手を引いたまま、

流れに逆らうように、一歩踏み出す。

その時だった。


「——お蓮様」


低く、しかしはっきりとした声。

人の流れの中で、

一人だけ、動いていない男がいた。

影のように立っている。

だが、目だけが違う。


「お迎えに来ました」


女将は、足を止めた。


「……誰」


男は答えない。

ただ、一歩近づく。


「その子を、こちらへ」


差し出された手。

迷いはなかった。

「この先に、荷車を用意しています」

周囲の喧騒が、遠くなる。


「乗って、逃げます」


一瞬だけ、間。

外で、また悲鳴が上がる。


「——早く」


その一言で、すべてが決まった。

女将は、娘の手を押し出した。


「行きなさい」


少女が、男の手を取る。

その瞬間、男の視線がわずかに動いた。

周囲を測るように。


「こちらです」


言葉と同時に、流れを切り裂くように進む。

不思議なことに、人が避けた。

ぶつかるはずの流れが、わずかにずれる。


背後で、何かが崩れる音がした。


「急ぎましょう」


男は振り返らない。

ただ、確実に“逃げ道”だけを選んで進む。

その背中を、女将は追った。

振り返れば、すべてを失うと分かっていたから。


そして、門が閉まる音が、外界を断ち切った。

屋敷の中は、静かだった。

先ほどまでの喧騒が嘘のように、

空気が止まっている。

女将は、しばらく動かなかった。

やがて、壁に手をつく。

息が、遅れて戻ってくる。


「……助かったわ」


それだけ言って、目を閉じる。

だが、すぐに開いた。

何かを思い出したように。


「……ねえ」


視線が、男へ向く。


「さっきの子、見たでしょう」


答えは求めていない。


盧華流ろかりゅう


その名だけで、空気が変わる。


「——あの子、私の娘よ」


沈黙。


「双子の姉なの」


視線が、背後の少女に落ちる。

その子は、何も言わない。


「盧華流は、李師師に預けた」


言葉は、まっすぐだった。


「迎えが来て、そのまま連れて行ってくれたわ」


外の方角を見る。


「……あの道を通るはずよ」


それだけで、十分だった。

男は、何も言わない。

すでに理解している。


「あなたなら——」


だが、次の言葉は迷わなかった。


「迎えに行ってきてちょうだい」


頼みではない。

命令だった。

空気が、わずかに張る。

男は、一歩だけ頭を下げた。


「御意」


それ以上は言わない。

すぐに、背を向ける。

戸口へ向かう。


「……待ってるわ」


女将の声が、背に届く。

男は振り返らない。

戸が開く。

外の喧騒が、また流れ込む。

次の瞬間には、もう——

その姿は、消えていた。


人の流れは、すでに道ではなかった。

押し出されるように進む群れの中で、

燕青はただ一人、逆らうように走る。

(……遅い)

視線を走らせる。

荷車。

背負い籠。

泣き叫ぶ子ども。

違う。


押し合うその中に——

ひとつだけ、異質なものがあった。

白木の輿。

簡素だが、どこか整っている。

(……あれか)

風が、わずかに流れる。

香の匂い。

間違いない。


「——李様!」


声が、群衆を裂く。

一瞬。

輿の御簾が、わずかに上がった。

その奥で、視線が合う。


李師師

「……止めて」


静かな声だった。

輿が、止まる。

人の流れだけが、その周りをすり抜けていく。

燕青は、息を整える間もなく近づいた。


「娘さんを」


それだけで、十分だった。

説明はいらない。

李師師は、わずかに目を伏せる。


「……そう」


それだけ言って、手を差し出した。

少女が、輿の奥から現れる。

泣いてはいない。

ただ、まっすぐに燕青を見る。


「行きましょう」


その言葉で、すべてが決まった。

少女の手が、燕青の手に渡る。

軽い。

あまりにも軽い。


「気をつけて」


背後で、声がした。

振り返らない。

もう、時間はない。

燕青は、来た道を引き返す。

人の流れに逆らいながら、

今度は、少女を守るように。

やがて——

見覚えのある門が見えた。

だが。

(……違う)

足が、止まる。

屋敷は、もう屋敷ではなかった。

煙が上がっている。

白いはずの壁が、黒く汚れている。

火は、まだ小さい。

だが、広がるのは時間の問題だった。

遅かったのか。

それとも——

最初から、こうなる場所だったのか。


「……戻れないね」


少女の声だった。

初めて、言葉を聞いた。

燕青は、答えない。

ただ、少女の手を引く。


「行くぞ」


振り返らない。

煙が、風に流れる。

その向こうで、

何かが静かに終わっていく。

二人は、その場を離れた。


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