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香の匂いが、少しだけ薄い。
いつもなら、夜の気配を閉じ込めるように焚かれる香が、
今日はどこか途切れている。
「……静かね」
誰にともなく呟くと、
隣にいた女が、答えずに視線を逸らした。
李師師様は、いつもと同じように座していた。
衣も、髪も、完璧だった。
けれど——
客が、来ない。
外で、何かが動いている。
音ではない。
気配が、流れている。
「……今夜は、もう仕舞いましょう」
誰かが言った。
こんな時間に、その言葉を聞いたのは初めてだった。
その時、下で声がした。
低く、急ぐような声。
「——迎えに来た」
振り返ると、見慣れない男が立っていた。
粗末な衣。
けれど、目だけが、場違いなほど真っ直ぐだった。
「遠縁にあたる」
男はそう言った。
「ここは、もう——」
そこまで言って、口を閉じる。
言葉はいらなかった。
誰もが分かっていた。
この場所は、守られなくなったのだと。
李師師様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、手にしていた扇を閉じる。
その音だけが、やけに大きく響いた。
「……行きましょう」
静かに、そう言った。
階を降りると、空気が違っていた。
外のざわめきが、壁越しに押し寄せていた。
いつ崩れてもおかしくないのに、
この部屋だけは、まだ形を保っている。
「……師師」
戸口に立っていたのは、隣の妓楼の女将だった。
いつもは整えられている髪が、今日は乱れている。
李師師は、ゆっくりと顔を上げた。
「どうしたの」
女将は答えず、後ろを振り返る。
そこに、小さな影があった。
少女が一人。
何も言わず、ただこちらを見ている。
「……この子を」
女将の声は、思っていたよりも静かだった。
一歩、近づく。
その手には、布に包まれたものがあった。
「持って行ってほしいの」
差し出されたそれを、
李師師は受け取る。
布越しでも分かる、冷たい硬さ。
そっと開くと、淡い光が覗いた。
白く、なめらかな石。
傷ひとつない。
何も聞かなくても、それが何かは分かった。
「……何かの玉ね」
女将は頷かなかった。
ただ、少女の肩に手を置く。
「この子、盧華流っていうの」
少女は、視線を逸らさない。
泣いてもいない。
ただ、立っている。
「遠くへ行くんでしょう」
女将が言う。
「だったら——」
言葉が、そこで途切れる。
外で、誰かが怒鳴った。
「急げ!」
迎えの男の声だった。
空気が、現実に引き戻される。
女将の指が、ほんの一瞬だけ強くなる。
それから、離れた。
「……お願い」
それだけだった。
李師師は、少女を見る。
そして、石を見る。
ほんのわずかに、息を吐いた。
「分かったわ」
それ以上は言わない。
少女の手を取る。
冷たい手だった。
「行くわよ」
その時、女将が何か言いかけた。
けれど、声にはならなかった。
戸が開く。
外の音が、一気に流れ込む。
人の波。
叫び声。
足音。
振り返る余裕は、もうない。
それでも——
一瞬だけ、
李師師は立ち止まった。
振り返らないまま、言う。
「……必ず」
何に対しての言葉か、
誰にも分からなかった。
戸が閉まる。
その向こうで、
何かが終わった。
外は、夜のはずなのに、暗くない。
人が、多すぎる。
荷を抱えた者。
泣く子。
振り返らずに歩く女。
押される。
足がもつれる。
誰かの肩にぶつかる。
「離れるな」
あの男が言う。
振り返ると、もう楼は見えなかった。
さっきまで、あそこにあったはずなのに。
「……ねえ」
小さく呟いた。
「戻れると思う?」
誰も答えなかった。
李師師様だけが、ほんの少しだけ、足を止めた。
それから、振り返らずに言った。
「戻る場所は、もう無いわ」
その声は、あまりにも静かで、
あまりにも確かだった。




