表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/154

80

香の匂いが、少しだけ薄い。


いつもなら、夜の気配を閉じ込めるように焚かれる香が、

今日はどこか途切れている。


「……静かね」


誰にともなく呟くと、

隣にいた女が、答えずに視線を逸らした。


李師師様は、いつもと同じように座していた。


衣も、髪も、完璧だった。


けれど——

客が、来ない。

外で、何かが動いている。

音ではない。

気配が、流れている。


「……今夜は、もう仕舞いましょう」


誰かが言った。

こんな時間に、その言葉を聞いたのは初めてだった。


その時、下で声がした。

低く、急ぐような声。


「——迎えに来た」


振り返ると、見慣れない男が立っていた。

粗末な衣。

けれど、目だけが、場違いなほど真っ直ぐだった。


「遠縁にあたる」


男はそう言った。


「ここは、もう——」


そこまで言って、口を閉じる。

言葉はいらなかった。

誰もが分かっていた。

この場所は、守られなくなったのだと。

李師師様は、しばらく何も言わなかった。

ただ、手にしていた扇を閉じる。

その音だけが、やけに大きく響いた。


「……行きましょう」


静かに、そう言った。

階を降りると、空気が違っていた。


外のざわめきが、壁越しに押し寄せていた。

いつ崩れてもおかしくないのに、

この部屋だけは、まだ形を保っている。


「……師師」


戸口に立っていたのは、隣の妓楼の女将だった。

いつもは整えられている髪が、今日は乱れている。

李師師は、ゆっくりと顔を上げた。


「どうしたの」


女将は答えず、後ろを振り返る。

そこに、小さな影があった。

少女が一人。

何も言わず、ただこちらを見ている。


「……この子を」


女将の声は、思っていたよりも静かだった。

一歩、近づく。

その手には、布に包まれたものがあった。


「持って行ってほしいの」


差し出されたそれを、

李師師は受け取る。

布越しでも分かる、冷たい硬さ。

そっと開くと、淡い光が覗いた。

白く、なめらかな石。

傷ひとつない。

何も聞かなくても、それが何かは分かった。


「……何かの玉ね」


女将は頷かなかった。

ただ、少女の肩に手を置く。


「この子、盧華流ろかりゅうっていうの」


少女は、視線を逸らさない。

泣いてもいない。

ただ、立っている。


「遠くへ行くんでしょう」


女将が言う。


「だったら——」


言葉が、そこで途切れる。

外で、誰かが怒鳴った。


「急げ!」


迎えの男の声だった。

空気が、現実に引き戻される。

女将の指が、ほんの一瞬だけ強くなる。

それから、離れた。


「……お願い」


それだけだった。

李師師は、少女を見る。

そして、石を見る。

ほんのわずかに、息を吐いた。


「分かったわ」


それ以上は言わない。

少女の手を取る。

冷たい手だった。


「行くわよ」


その時、女将が何か言いかけた。

けれど、声にはならなかった。

戸が開く。

外の音が、一気に流れ込む。

人の波。

叫び声。

足音。

振り返る余裕は、もうない。

それでも——

一瞬だけ、

李師師は立ち止まった。

振り返らないまま、言う。


「……必ず」


何に対しての言葉か、

誰にも分からなかった。

戸が閉まる。

その向こうで、

何かが終わった。


外は、夜のはずなのに、暗くない。

人が、多すぎる。

荷を抱えた者。

泣く子。

振り返らずに歩く女。

押される。

足がもつれる。

誰かの肩にぶつかる。


「離れるな」


あの男が言う。

振り返ると、もう楼は見えなかった。

さっきまで、あそこにあったはずなのに。


「……ねえ」


小さく呟いた。


「戻れると思う?」


誰も答えなかった。

李師師様だけが、ほんの少しだけ、足を止めた。

それから、振り返らずに言った。


「戻る場所は、もう無いわ」


その声は、あまりにも静かで、

あまりにも確かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ