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飯店の二階、騒がしい下界の喧騒を遮断した貸し切りの一室。

最高級の龍井茶ロンジンちゃが放つ、清々しくも深い香りが立ち込める中、私は一振りの筆を置くように、静かにその時を待ちました。


階段を上がる足音は、驚くほど軽く、それでいて大地を捉えるような確かさがありました。


武神の影と、密偵の糸


岳飛がくひ様。その瞳は、国の行く末を見据える厳しさと、民を慈しむ温かさを同時に湛えていました。柴翊さいよく様に促され、席に着かれたそのお方は、挨拶もそこそこに、本題を切り出されました。


「……燕青えんせいと連絡が取れぬ。奴を通じて届くはずの、金国きんこくの内部情勢を探る密偵からの報告が、この数週間、ぷっつりと途絶えているのだ」


お嬢の独り言

「……金国の密偵、ですって?

燕青おじさん。あんた、南国の果実を運ぶ合間に、そんな危うい糸まで手繰っていたのね。


そういえば、あの連れ来た敵か味方か分からないような流れ者とも付き合いがあったものね。


あの人懐っこい笑顔の裏で、国の命運を左右するような情報の結節点むすびめになっていたなんて」

私は、美林びりん様と花陽かようちゃんを背後に従え、冷静に口を開きました。

「岳飛様。燕青は今、航海の途上で不運にも熱病に伏しております。


命に別状はございませんが、情報の糸が途切れたのは、その身体の変調ゆえかと存じます。

……ですが、ご安心ください。燕青が不在の間、その役割の一部は、燕青の弟子からこの私が預かっております。」


私は、懐から一通の書状を取り出しました。


それは、おじさんの弟子たちが影で回収し、私が代筆屋の知恵で暗号を読み解いていた、北からの断片的な報告の写しです。


「おじさんは、敵をも近くに置く男でした。

彼が密偵たちと結んでいたのは、義理や忠誠ではなく、もっと根源的な、権力者以外は、付き合い方次第で敵にもの見方にもなる……。


私が今、ここで設立した『華翊かよく商会』も、実はその情報の流れをより強固にするための『器』でもあるのです」


岳飛様は、私の差し出した書状を食い入るように見つめ、やがて深く、重たい溜息を吐かれました。


「……燕青のめいと聞いていたが。

なるほど、奴がこの臨安を君に託した理由が、今、はっきりと分かった。

剣を振るう者だけが、国を守るのではないのだな」


お嬢の独り言

「燕青おじさん。

あんたが熱病でうなされている間に、私はあんたが命懸けで繋いでいた『密偵の糸』さえも、商会の業務記録という名の迷彩めいさいの下に隠して、守り抜いてあげたわよ。

岳飛様のような英雄が、代筆屋の娘の言葉を信じて頷いてくださった。

これで『華翊商会』は、単なる貿易拠点ではなく、この国の喉元を守る『とりいで』になったわ」


茶器から立ち上る湯気の向こうで、岳飛様と柴翊様が静かに視線を交わす。


そこには、新しい同盟の誕生を告げる、静かな、しかし確かな熱が宿っていました。

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