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運河に沿って、色とりどりの灯籠が水面を滑っていく夜。
昼間の喧騒が嘘のように、水音だけが静かに響く時間です。
李美林様、陽ちゃん、そして私の三人は、南国の果実の残り香を背中に、ゆっくりと歩を進めていました。
水面の月と、異邦の姫君
美林様は、臨安の夜景を眩しそうに見つめながら、ふっと吐息をつきました。
その横顔には、海を渡ってきた王族としての矜持と、一人の少女としての高揚が混じり合っています。
「……信じられないわ。たった数日で、この街の虜になってしまうなんて」
美林様の声は、夜風に溶けるように穏やかでした。
お嬢の独り言
「『虜』、ですか。
美林様がこれまで見てきた海の青や、南国の極彩色の花々とは、また違う毒がこの街にはあるのかもしれませんね。
繁栄と腐敗、そして人の欲望が、この灯籠の光みたいに絶え間なく流れている。
陽ちゃんは、美林様の長い髪が夜風に揺れるのを、少し離れたところから見守っています。
昼間は飯店で勇ましく立ち回っていたあの子も、今は美林様の美しさに気圧されたのか、それともこの静かな空気に当てられたのか、珍しく神妙な顔をして歩いているわ」
美林様が立ち止まり、運河の向こうを見つめたまま、私に視線を戻しました。
「蓮華さん。……私、このままここに留まりたいの。
もちろん、ただの居候になるつもりはないわ。
貿易の窓口業務……南国との交渉や、品物の検品。それらを私が手伝うという口実があれば、柴翊様も、そして私の故郷の者たちも、文句は言わないはずでしょう?」
お嬢の独り言
「『口実』なんて、ずいぶんと正直な言い方ね。
でも、美林様がここにいてくだされば、新しく設立する『華翊商会』にとって、これほど強力な盾はありません。
王族の姫君が自ら窓口に立つとなれば、市舶司の役人共も、裏で蜜を吸っている高官たちも、うかつに手出しはできなくなる。
敵を近くに置くと言ったけれど、美林様のような『光』もまた、私のすぐ傍にいてほしい。
暗い墨の香りに沈みがちな私の書房に、新しい風を吹き込んでくれるかもしれないから」
「……美林様。
そのお申し出、喜んでお受けしますわ。
燕青おじさんが熱病を治して戻ってきたときに、屋敷の主の座があなたに奪われていても、私は知りませんけれど」
私が少し意地悪く言うと、美林様は鈴を転がすような声で笑いました。
「ねえさま、美林様がいらしてくだされば、私も武術の稽古だけでなく、南国の言葉も教われますわね!」
陽ちゃんがようやく口を開き、嬉しそうに声を弾ませました。
静かな夜の誓い。
燕青おじさん。
あんたがいない間に、私の周りには、かつての敵も、新しい仲間も、そして王族の姫君までが集まってきているわ。
あんたが海を越えて運んできた『縁』は、私の筆によって、今や大きなうねりになりつつある。
運河を流れる灯籠が、一つ、また一つと闇に消えていく。
でも、私たちの足元を照らす月明かりは、明日への道をはっきりと示していました。
「……さあ、帰りましょう。
明日の朝には、商会の正式な書類を届けに、あの役人たちが慌てて門を叩くはずだわ」
私たちは、三つの影を水面に揺らしながら、静かに屋敷へと戻っていきました。




