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「……貿易船一隻をまるごと、新しい商会の持ち船にする、ですか」
柴翊様のその提案を聞いたとき、私は思わず筆を止めて、窓の外……遠く運河の向こうにある港の喧騒を想像しました。
『華翊商会』。
私の名の一文字と、柴翊様の名の一文字。それが並んだ新しい看板が、臨安の街に掲げられることになる。
お嬢の独り言
「……燕青おじさんが熱病で寝込んでいる間に、話がどんどん大きくなっていくわね。
ただの代筆屋の看板娘が、今度は貿易商会の設立届に、船舶の登録申請、さらには検閲や税収のための専用倉庫の建設手続きまで……。
柴翊様も、人が悪いですわ。
『お嬢、君の筆なら、市舶司の役人も二つ返事で印を突くはずだ』なんて、涼しい顔で仰って。
でも、これもあのおじさんが運んできた『縁』の一部なのだとしたら、私が断る理由はないわね。
李美林様という王族の姫君を迎え、張家の方々が運んできた南国の果実を、庭積み上げる。
……文さんたちが作っている『邸報』に、一番に載せたくなるような景気のいい話じゃないの」
私は、美林様が持参された貿易の明細と、柴翊様からの依頼書を机に並べました。
船舶の登録には、船の大きさ、積載量、そして乗組員の構成まで細かく記さねばなりません。
倉庫の建設届には、土地の境界から防火の対策まで。
「……文さん、小大さん、彩雲さん。
今夜は『邸報』の仕事の合間に、少し知恵を貸してちょうだい。
市舶司の連中が、一文字も書き直せないほど完璧な、それでいて『華翊商会』の繁栄を予感させるような、見事な書類を仕上げてあげるわ」
裏の仕事部屋から、小大さんの力強い槌の音と、文さんの紙を繰る音が返ってきます。
燕青おじさんのいない代筆屋は静かだけれど、今は別の、もっと熱くて重たい縁が、この屋敷を動かし始めていました。
「……花陽ちゃんたちが飯店から戻ったら、庭いっぱいの果物の匂いに腰を抜かすでしょうね。
さあ、夜通しの作業になりそうよ。
おじさんがいつ戻ってもいいように、この『華翊商会』の基盤を、私の筆で盤石にしておきましょう」
私は、市舶司に提出するための最高級の紅い紙を広げました。
明日の朝、陽が昇る頃には、新しい時代の幕開けを告げる文字が、そこに並んでいるはずです。




