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夜。運河に無数の灯籠が流れていく。
紙の灯りは、水面に揺れながら、まるで帰る場所を探す魂のように、ゆっくりと下流へと流れていった。
私は、膝の上に一枚の小さな紙を置き、筆を取る。
依頼ではない。金にもならない。ただの、私のための言葉。
墨を含ませた筆先が、わずかに震えた。
お嬢の独り言
「……こういう時に限って、上手く書けないのよね。
他人の恋文も、遺言も、いくらでも綺麗に飾れるのに」
小さく息を吐き、私は静かに書き始めた。
『母様へ』
臨安の夜は、相変わらず騒がしいです。
運河には灯りが絶えず、人は笑い、歌い、まるでこの国が滅びかけていることなんて、誰も知らないみたい。
……そちらは、静かですか。
母様がいる場所は、きっと、こんな喧騒とは無縁なのでしょうね。
私は、あの頃より少しだけ大きくなりました。
……いえ、背丈の話ではなくて。
人の嘘を、見抜けるようになった、という意味で。
そして、その嘘を、上手に書けるようにもなりました。
母様が望んだ娘の姿かどうかは、分かりません。
でも、今日も私は、誰かの言えなかった言葉を、紙の上に残しています。
それが、誰かを救うのか、傷つけるのかも分からないまま。
……ねえ、母様。
あなたなら、どう書きましたか。
「元気でいなさい」と書くべきか。
それとも、「帰ってきなさい」と書くべきか。
どちらも、本当で。どちらも、残酷で。
私はまだ、その答えを知りません。
筆が一度止まる。
夜風が、灯籠の火を揺らした。
私は、もう一度墨を含ませる。
それから——もう一人分。
あの人は、きっと書かないから。
『華流へ』
……悪いな。
あいかわらず、気の利いた言葉は思いつかねぇ。
お前に言われた通り、あの子はちゃんと生きてる。
少し口は悪いが、腕は確かだ。
俺なんかより、ずっと立派な字を書く。
……だから、心配するな。
あとは——
そこで、筆が止まった。
私は、しばらくそのまま動かなかった。
お嬢の独り言
「……続き、あんたなら何て書くのよ」
返事はない。
あるはずもない。
それでも、私はゆっくりと、最後の一行を書き足した。
あとは、たまにでいい。
夢でもいいから、顔を見せてやってくれ。
筆を置く。
墨はまだ乾いていない。
私はその二通をそっと折り、小さな灯籠の中に忍ばせた。
灯りが、ほんの少しだけ揺れる。
運河へ流すと、二つの光は、寄り添うように並びながら、ゆっくりと遠ざかっていった。
まるで——
あの人が、やっと隣に並べたみたいに。
「……遅いのよ、ほんとに」
私はそう呟いて、背を向けた。
涙は、落ちなかった。




