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「あの子たちは今日、飯店の営業が終わるまでは、帰って来ないし。燕青おじさんの弟子たちも、今は一人残らず飯店の戦力として、手伝いに行ってるし」
私は静まり返った書房で、墨を磨る音だけを聞きながら、ふっと苦笑いしました。お嬢様たちの香り袋の華やかな残り香も、今はもう消えています。
お嬢の独り言
「陽ちゃんが店先で客を捌き、燕青おじさんの弟子たちが重い蒸籠を運び、熟練の料理人さんたちが淡々と東坡肉を仕上げる。
あちらは今、臨安で一番熱い場所になっているはずよ。
あの子たちがいない書房は、驚くほど静か。
でも、これが本来の『代筆屋』の姿なのかもしれないわね。
一対一で依頼人の話を聞き、その思いを静かに紙に定着させる。
外の喧騒を遠くに聞きながら、私は私の持ち場で、今日という日を文字で綴っていくだけ。
このお店に残っているのは、墨と紙、そして私一人」
裏では、文さん達が次の『邸報』の製作中。燕青おじさんの居ない代筆屋なんて、こんなものだ。
そして、林冲師範のお弟子さんが置いていった「清風万里」の余韻を噛み締めながら、次の方を招き入れました。
家族の健康を願う一筆、商売繁盛を祈る一筆。
一つ一つの依頼に対し、今の静寂を味方につけて、いつもより丁寧に筆先を動かします。
夕暮れが近づき、運河に少しずつ灯がともり始めます。
私の書房には、穏やかな墨の香りと、静かな筆の擦れる音だけが満ちていました。




