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「……師師様が、臨安の片隅に隠れ住んでいらしたなんて」
女将さんは、衝撃の事実に、言葉を失いました。あの伝説の才媛が、病に侵され、静かに最期を迎えようとしている……。
私は、
「時間が無いの。女将さんの記憶にある、師師様が愛した**『幻の便箋』**を今すぐ形にするわ。これが、代筆屋としての私の、最初で最後の献上物よ」
幻の便箋、伝説の終わりへ
お嬢の独り言
「……女将さんの記憶を、一つずつ手繰り寄せていく。
紙は、月光を吸い込んだような、青みがかった極薄の絹漉し紙。
そこに、公孫勝おじ様の弟子に頼んで手に入れた、北の地の最果てに咲く『雪蓮』の香りを極限まで薄めて染み込ませる。
『小大さん、版木は彫らないで。……代わりに、この梨の木の木目をそのまま活かして、水面の波紋のような“空摺り(からずり)”を施して。文字を書いたとき、墨がその溝を避けて、まるで水に浮いているように見せたいの』
『……分かった。お嬢、俺の持てるすべての技術を、この木目に込めるぜ。師師様というお方に恥じない、最高の一枚をな』
彩雲さんは、師師様が好んだという、淡い藍と銀鼠の中間の色を、套印(多色刷り)の極致で再現しました。
そして、出来上がった一枚。
それは、触れれば消えてしまいそうなほど儚く、それでいて凛とした気品を纏った、この世のものとは思えない便箋でした。
私は燕青おじさんの弟子と共に、李応おじ様の遠い親戚が所有する隠れ里の屋敷。へと急ぎました。
奥の部屋に横たわっている病にやつれながらも、なお息を呑むほど美しい、李師師様にご挨拶をし
持参した便箋を手渡した。
『……まあ。……この香りは、汴京(弁京:べんけい)の冬の匂い。そしてこの紙……。ああ、懐かしい。まるであの日の月影を、そのまま掬い取ったようですわ……』
師師様が細い指でその便箋に触れた瞬間、彼女の瞳に微かな光が宿りました。
『……お嬢様。あなたは、燕青とあの方が守りたかった“新しい光”なのですね。……間に合って、よかった』
師師様は、私が持参した筆を手に取ろうとしましたが、その力はもう残されていませんでした。
私は、彼女の代わりに、彼女の最後の言葉をその便箋に記しました。
それは、海の向こうにいる燕青おじさんへ宛てた、たった一言。
“燕よ、春の風に乗って、自由な空へ帰りなさい”
お嬢の独り言
『……師師様の手が、私の手に重なったとき。
氷のように冷たいのに、その奥には燃えるような情熱と、深い慈しみを感じた。
文字を書く。それは、誰かの命を紙の上に繋ぎ止めること。
私は、涙で墨を滲ませないよう、一文字、一文字、彼女の魂を刻みつけた』
その日の夕暮れ。
師師様は、私たちが作った便箋を胸に抱いたまま、静かに眠りにつかれました。
屋敷の周りには、石菖蒲と雪蓮の香りが、いつまでも、いつまでも漂っていました。
私の胸元では、あの日授かった最高級の**「和田玉」**が、まるで彼女の命の灯火を吸い込んだかのように、ひんやりと、けれど強く脈打った気がしました。
燕青おじさんがずっと探し続け、母様から師師様へと渡り、そして私の元へ還ってきたこの石。これこそが、北宋の記憶と、私たちの絆を繋ぐ唯一の証。
『お嬢様……旦那が戻られたら、何とお伝えすれば。その和田玉の光は、あまりに……』
お嬢の独り言
『……何も言わなくていい。
この石が放つ光を、おじさんに見せるだけでいいの。
おじさんは、港に着いた瞬間に気づくはずよ。
潮風の中に混じる、雪蓮の香りと、この石が呼ぶ声に。
私は、師師様の胸元に、あの日おじ様から頂いた別の香守を添えたわ。
あの方の魂が、迷わずに北の空へと、母様の待つ場所へと昇っていけるように。
燕青おじさん。
あんたの旅の終わりは、もうすぐそこまで来ているわ。
あんたが帰ってきたとき、私はこの和田玉を握りしめて、最高の笑顔で“お帰りなさい”って言ってあげるから』」
「燕よ、春の風に乗って帰りなさい」が記された、世界で唯一の一通。
屋敷に広がる香りは、燕青の弟子たちによって「聖域」として守られることに。




