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「……えっ?」


手元で墨を摺っていた文さんの手が、ぴたりと止まりました。

部屋の喧騒が遠のき、女将さんの唇から漏れたその名が、重く、しっとりと座敷の空気を支配しました。


**李師師りしし**様。

かつて北宋の都・開封で「天下第一」と謳われ、皇帝すらも虜にした伝説の才媛。おじい様……盧俊義とも深く関わりのあった、私たちの「根源」に繋がる女性。


師師の残り香、語り継がれる記憶


その女将さんは、遠い目をして、大切に仕舞い込んでいた古い刺繍の端切れを見つめていました。


「……そうよ、お嬢ちゃん。私はまだほんの子供だったけれど、あの方の身の回りの世話をしていたの。開封の街が火の海になる前……あの方はいつも、こんな香りに包まれて、誰にも届かないような寂しい目で、遠い空を見つめていたわ」


お嬢の独り言

「……心臓の鼓動が、早くなるのが分かった。

まさか、こんなところで師師様の欠片かけらに出会えるなんて。

女将さんが語る師師様は、物語の中の伝説ではなく、確かにそこに生きていた、一人の誇り高き女性だった。


『……女将さん。その時、師師様はどんな文字を、どんな紙に書いていたか……覚えている?』


私の問いに、女将さんは静かに頷きました。


『あの方は、ただ美しいだけの文字は書かなかった。墨の中にほんの一滴、その日の露を含ませたような、瑞々しいけれど、どこか儚い文字。……あんたの書く文字を見てると、時々、あの方の面影が重なって、胸が締め付けられるのよ』


燕青おじさんの弟子が、背後で微かに息を呑みました。


彼にとっても、師師様という名は、燕青おじさんの魂に刻まれた聖域であることを知っているから。


お嬢の独り言

『……そうね。おじさんの、あのどこか孤独な背中の理由は、全部そこにあるんだもの。


女将さん、教えて。師師様が愛した本当の香りを。

私がそれを、今の臨安に、もう一度蘇らせてみせる。

おじさんが帰ってきたとき、“お帰りなさい”の代わりに、師師様の香りで出迎えられるように』


私は、震える手で女将さんの言葉を書き留めました。

それは代筆の依頼ではなく、歴史の断片を繋ぎ止めるための、命懸けの記録。

今、時を越えて師師様の生きた時代へと繋がっていく。


『……さあ、夜はまだ長いわ。

女将さん、もっと聞かせて。

あの黄金の都・開封で、あの方たちが何を見て、何を信じていたのかを』


妓楼の奥深く、石菖蒲の香りに混じって、失われた都の記憶が、私の筆先から静かに溢れ出そうとしていました」

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