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「……妓楼の女将さんたちから、揃って呼び出し?」
店に駆け込んできた丁稚さんの必死な形相を見て、私は筆を置きました。臨安の不夜城を仕切る女将さんたちが、一堂に会して代筆屋を呼ぶなんて……。普通の娘なら足がすくむところでしょうけれど、私には燕青おじさんから教わった「夜の街の歩き方」と、心強い味方がいます。
「分かったわ、すぐ行くわね。……小大さん、留守をお願い。文さん、念のため新しい生薬の配合表を持ってきて。あそこのお姉様たちは、流行りには誰よりも敏感なんだから」
私は、燕青おじさんの弟子の中でも特に目端が利く一人に目配せをし、夜の帳が下り始めた街へと踏み出しました。
不夜城の会談、香りの領分
案内されたのは、煌びやかな提灯が並ぶ妓楼の奥座敷。そこには、臨安でも指折りの妓楼を切り盛りする女将さんたちが、厳しい、けれど好奇心に満ちた瞳で座っていました。
「お嬢ちゃん、あんたの店の『願い袋』の噂、内宮だけじゃなくて、私たちの耳にまで届いてるわよ。……あの子たちが、客を待つ間にあんたの香りを嗅いで、うっとりしてる。商売あがったりじゃないの」
お嬢の独り言
「……女将さんたちの声は鋭いけれど、その奥には確かな敬意があったわ。
彼女たちが求めているのは、単なる流行じゃない。
この不夜城で戦う女の子たちの、心の鎧。
そして、客を惹きつけ、離さないための『秘密の記号』。
『女将さん、お呼び立てありがとうございます。……出入りが難しいなら、私の方から伺うのは当然のこと。皆さんが求めているのは、客を酔わせる香料だけじゃない……そうでしょう?』
私は、弟子の男が背負っていた重い箱から、試作段階の『特製紙』を取り出しました。
それは、道士様から届いたばかりの石菖蒲に、少しだけ官能的な麝香を混ぜ、多色刷りで『月下の花』を刷り込んだ、最高級の文香。
『……これよ。この紙に、あの子たちの筆跡を私が整え、客への文を書く。
紙に染み込んだ香りが、客の書斎に届いたとき、その男はもう、あの子の部屋の空気を思い出さずにはいられなくなる』
女将さんたちの一人が、その紙を顔に近づけ、深く息を吸い込みました。
『……龍脳の清涼感の後に、この甘い残り香。……いいじゃない。これなら、野暮な男たちもコロッといくわね』
燕青おじさんの弟子は、部屋の隅で影のように立ち、周囲の気配を伺いながら、いつでも私が動けるよう静かに控えています。
かつて盧家の護衛も務めていた彼がいるだけで、ここがどれほど華やかな伏魔殿であっても、私の心は凪いだ湖のように静かでした。
『決まりね。これからは、お嬢様の店から定期的にこの紙と香りを卸してもらうわ。……あ、それと、あの子たちの代筆も、週に一度はここへ来てやってちょうだい。あの子たちの不器用な恋心、あんたなら綺麗に整えてくれるんでしょう?』
お嬢の独り言
『……ええ、喜んで。
華やかな舞台の裏側で、彼女たちが流す涙も、秘めた想いも。
私がすべて、この香る紙の中に閉じ込めてあげましょう。
燕青おじさん、見てなさい。
これで翊華印盤は、宮中から妓楼の奥深くまで、臨安の“心”のすべてを網羅したわ。
文字と香りのネットワークが、網の目のようにこの街を包んでいく……。
もう、誰も私たちの動きを止めることはできないわよ』
帰り道。
弟子の男が、月明かりの下で小さく笑いました。
『お嬢様、お見事です。燕青の旦那が聞いたら、泣いて喜ぶでしょうな。……さあ、店に戻りましょう。小大たちが、首を長くして待っていますから』」




