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「……ちょっと、小大さん。店の前の輿の列が、急にざわつき始めたわよ。一体何事?」
私が顔を上げると、燕青おじさんの弟子たちが、これまでにないほど背筋を伸ばして入り口に控えていました。
店の外からは、これまでの華やかな香りの競演を切り裂くような、一筋の涼やかな風……ではなく、迷いのない足音が近づいてきます。
そして、暖簾を潜って現れたのは、磨き抜かれた武具を纏いながらも、どこか詩人のような憂いを帯びた瞳を持つ、一人の若い将校でした。
薫る追跡、主を探す若武者
その若様は、懐から一包みの「願い袋」を取り出しました。それは、かつて私が一文字を書き入れ、道士様直伝の生薬で包んだ、あのお嬢様の持ち物。
「……突然の無礼、許していただきたい。私は禁軍の副隊長を務めるものだが……街の至る所でこの香りに遭遇する。だが、この袋から漂う香りと、中に記された文字だけは、私の魂を直接揺さぶるのだ。この文字を書いたのは、貴殿か?」
お嬢の独り言
「……来たわね。
お嬢様たちの『香りの伏兵』に、ついに本物の大物が掛かったわ。
若様の指先には、何度も袋を撫でたような跡がある。
文字に込めた想いと、石菖蒲の清冽な香りが、戦場に身を置く彼の乾いた心に、深い安らぎを届けたのね。
『若様、その香りは……持ち主の願いそのものです。私が書いたのはその影に過ぎませんが、その文字があなたをここまで導いたのなら、それはもはや“宿命”と呼ぶべきものかもしれませんわ』
文さんは、横で『ひえぇ、本物の若様だ……』と震えながらも、抜かりなく帳面を確認しています。
『師匠、この袋の刺繍……あの、三日前に何度も通い詰めた、宋錦商家の令嬢、玉蘭様のものに間違いありません』
小大さんは、若様の帯びている剣の装飾と、自分が彫った版木の紋様を見比べながら、不敵に笑いました。
『へっ、若様。その袋の中の紙を見てみな。お嬢が書いた文字の裏に、俺が彫った“連理の枝”の透かしが入ってるはずだ。香りに誘われ、文字に導かれ、最後は版木の縁で結ばれる。……逃げられねぇぜ?』
燕青おじさんの弟子たちが、外で玉蘭様の輿を密かに呼び止めたようで、店の外には今、期待と緊張が入り混じった、言葉にできないほど甘く、濃密な香りが立ち込めています。
お嬢の独り言
『……さあ、代筆屋の仕事はここまで。
あとは、この香りが二人の言葉を繋いでくれるはず。
若様、その袋を大切になさってください。
文字はいつか薄れるかもしれませんが、心に刻まれた香りは、一生消えることはないのですから』
若様が深く一礼して店を出た瞬間、外から小さく、けれど確かな歓喜の溜息が聞こえてきました。
臨安の春風が、二人の門出を祝うように、龍脳の香りを遠くまで運んでいく。
『……ふふ。おじさん、見てた?
文字と香りが、一つの恋を実らせたわよ。
代筆屋っていうのは、案外、縁結びの神様よりいい仕事をするかもしれないわね』」




