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「……もう、あのお嬢様ったら! 輿の簾を潜り抜けて、通り全体が龍脳と石菖蒲の香りで満ちているじゃない」
私は店先を通り過ぎる豪華な輿を見送って、思わず苦笑いしてしまいました。
今や臨安の目抜き通りは、まるで動く香炉が列をなしているかのよう。何度も私の店へ通ってくださるお嬢様たちの輿の中には、私と小大さんが仕上げた「願い袋」が、それこそ簾が見えないくらい鈴なりに吊るされているものも少なくありません。
香りの追跡者と、乙女の計略
お嬢の独り言
「……なるほどね。ただの信心深さじゃないわ。
これだけ強烈に、それでいて高貴に香らせていれば、目当てのあの方が通りかかったとき、姿を見ずとも『あ、あの方の輿だ』と気づかせることができる。
香りに、自分だけの『名前』を付けているのね。
『師匠、あちらの輿は白芷が強め、あちらは丁香が際立っています。……もはや文字を読む前に、鼻で誰が来たか分かってしまいますよ』
文さんは、お嬢様たちの『独自の調合』を帳面に控えながら、あきれ顔。
けれど、小大さんはその「乙女の執念」に感じ入ったようです。
『へっ、わざとやってるんだろ。想い人の鼻先に、自分の存在を突きつける……。代筆屋の仕事も、ついに“目に見えない領域”の果たし合いになったってわけだ。お嬢、俺も負けてられねぇ。袋の揺れ方で香りがより広がるような、重り代わりの小さな真鍮細工でも作ってやろうか?』
燕青おじさんの弟子たちは、鼻をひくつかせながら、プロの目線(?)で警護にあたっています。
『お嬢様、あちらの香りは柴翊様の邸宅の方へ向かいましたな。……ほう、あちらは禁軍の練兵場の方へ。……ふむ、恋の行先まで丸見えですな』
お嬢の独り言
『……女の子の知恵っていうのは、公孫勝おじ様の道術よりも恐ろしいわね。
でも、その香りの中心にあるのは、私が心を込めて書いた一文字。
その一文字が、あの方の心に届くための“矢”になるのなら、私はいくらでも墨を磨って、香りを調合してあげるわよ。
さあ、小大さん! 香りをより遠くまで運ぶための、薄くて軽い、特製の“透かし彫り”の版木を準備して!
文さん、あのお嬢様には、ただの恋文じゃなく、香りに乗って心に突き刺さるような“和歌の一節”を選んであげなさい!』
臨安の春の風が、色とりどりの「願い」の香りを乗せて、街中へ広がっていく。
燕青おじさんが海から帰ってきたら、この香りに包まれた都を見て、一体どんな顔をするかしら。
『……きっと、“お嬢、お前は臨安を巨大な匂い袋に変えちまったのか!”って、腰を抜かすに違いないわね!』」




