第二部 第二章:赤黒い沈黙 ― 執行猶予のない絶望 ―
ソヨンから手紙を受け取った翌日から、はじめは警察署と児童相談所を往復した。
しかし担当刑事は、死んだ魚のような目で言った。
「山下さん、法は『可能性』だけでは動けない。我々もキム宅を訪問しています。ご主人は街の名士で対応も理性的、ソヨンちゃん本人も『パパとママが大好き』と証言している。これ以上の介入は親権の侵害に当たります。司法試験を通ったあなたなら、分かりますね」
ソヨンの父は、この街の権力構造の中心にいた。その家のドアをこじ開けることは、刑事自身のキャリアを終わらせることを意味する。
「あの子の目が、助けてくれと叫んでいる。法律は、あの子の心臓が止まるまで印刷物でしかないのか」
叫びは廊下に吸い込まれ、消えた。
最悪の日は、ソヨンの一時保護予定日の一週間前に来た。
施設で書類を整理していると、佐藤が幽霊のような顔で駆け寄った。
「山下君、キムさんの家で救急車が——」
はじめは最後まで聞かず走り出した。
自宅前には数台のパトカーと、明滅する赤色灯があった。野次馬の隙間を縫い、規制線を越えようとしたとき、ストレッチャーが運び出されてきた。白い布を頭まで被せられた、あまりに小さな塊。
ソヨンの弟、五歳のジフンだった。
はじめの隣を、警察に付き添われた継母が通り過ぎた。高級なハンカチで顔を覆い、泣き叫んでいる。「目を離した隙に、階段から」と。
はじめは彼女の手を見た。指の関節が、硬いものを何度も殴りつけたように、赤黒く腫れ上がっていた。
家の中から、警官に抱きかかえられてソヨンが出てきた。
顔から感情が消えていた。涙もない。弟の遺体が運ばれていくのを、ただ冷めた目で見ていた。
視線がぶつかった瞬間、ソヨンの唇が動いた。
音にならなかった。それでも、はじめの耳には届いた。
『遅かったね。』
はじめはその場に立ち尽くした。司法試験のために費やした何千時間。暗記した膨大な判例。それらは全て、五歳の命一つ救えなかった。
足が動かなかった。どのくらいそうしていたか、分からなかった。
数時間後、継母の供述が出た。
「しつけのつもりで叩いたが、死ぬとは思わなかった」
容疑は傷害致死。有力者である夫の力が働けば、執行猶予もあり得た。
夜、誰もいなくなった図書室で、姉の直子が言った。
「ソヨンちゃんは今、警察の保護下にいる。でもお父さんが連れ戻そうとしている。このままじゃ、ソヨンちゃんも『事故』にされる」
はじめは答えなかった。
しばらくして、机の上のソヨンの手紙を手に取った。末尾の一文を、指でなぞった。
『お父さんは、あの井戸から聞こえる声に、私を捧げなきゃいけないって言うの。』
はじめは立ち上がり、コートを掴んだ。




