第二部第一章:法の届かない聖域
二〇XX年夏。山下はじめは、安アパートの一室で不採用通知をシュレッダーにかけていた。
司法試験を一発で突破した。しかし大手事務所の面接官は、履歴書を一瞥してこう言った。
「君の正義感は立派だが、この仕事に必要なのは融通だ」
以来、弁護士バッジだけを持った、何者でもない青年として半年が過ぎた。
電話をかけてきたのは、地元で保育士をしている姉の直子だった。
「現場を知らない法律家なんて、六法全書の付録よ。余った知識、子供たちのために使いなさい」
姉が強引に押し込んだのは、街外れにある「さくら児童センター」の臨時職員という仕事だった。かつて『ラジオ体操事件』の惨劇が起きた場所から、数駅しか離れていない古い平屋の施設。
「ここはね、山下君。法律が一番嫌う『グレーゾーン』の吹き溜まりよ」
施設長の佐藤は、案内しながら事務的に言い放った。
多動気味に走り回る子供、壁際で一日中動かない子供。はじめが司法修習で見てきた整然とした書面の世界とは、正反対の無秩序がそこにあった。
そこで、一人の少女に目が止まった。
図書室の隅で、ボロボロの絵本を捲っている。真夏なのに首元まで隠れる長袖を着込んでいた。
「ソヨンちゃん、こんにちは。今日からここで働く山下です」
キム・ソヨン。韓国人の母と日本人の父を持つ、小学三年生。まつ毛の長い瞳が一瞬だけ上がった。そこには子供らしい好奇心がなかった。深い淵のような諦めと、何かを悟りきった冷ややかさだけが宿っている。
彼女がページをめくった瞬間、袖口がずれた。
細い手首に、意志を感じる火傷の跡があった。偶然触れたような形ではない。何かを押し付けられた痕だ。
夕方、はじめは佐藤に詰め寄った。
「ソヨンちゃんの腕の傷、見ましたか。人為的なものです」
「分かってるわ」佐藤の反応は鈍かった。
「でも彼女の父親はこの地域の有力者で、警察にも顔が利く。本人は『アイロンに触った』と笑顔で答える。決定的な証拠がない以上、私たちにできるのは経過観察だけ」
「死ぬまで見ていろと言うんですか」
「警察が家庭という聖域に踏み込むには、もっと決定的な『血』が必要なの。それがこの現場の現実よ」
はじめは黙った。かつてこの街で起きた『ラジオ体操事件』も、こうして塗り潰されてきたのではないか。子供たちの小さなSOSが、大人の「現実的な事情」の下に。
帰り際、忘れ物を取りに図書室へ戻ると、夕闇の中にソヨンがいた。
はじめの気配に気づくと、小さく、しかし凛とした声で言った。
「お兄さん。法律の勉強、してるんでしょ」
「……どうして」
「お姉さんが言ってた。悪い人をやっつけるための言葉を、たくさん知ってるって」
ソヨンは火傷の跡を、自分でそっと撫でた。
「ねえ。どうして、人を叩いちゃいけないって法律があるのに、お父さんは捕まらないの」
はじめは答えられなかった。一万を超える条文を暗記してきた。しかしその問いの前で、言葉が出てこなかった。
ソヨンは震える手で、汚れた手紙をはじめの掌に押し付けた。
「これ、読んで。私が消えちゃう前に」
彼女が立ち去った後、はじめは手紙を開いた。
家の中で毎晩行われているという儀式の内容。そして末尾に、たどたどしい字でこう書かれていた。
『お父さんは、あの井戸から聞こえる声に、私を捧げなきゃいけないって言うの。』
窓の外で、セミが鳴いていた。十五年前と同じ、狂ったような声で。




