終わらないラジオ体操
検死室にラジオ体操のメロディが響いた直後、街中の同報無線が一斉に鳴り始めた。
時刻は夕暮れ時のはずだった。しかし流れてくるのは、忌まわしい「午前六時十五分」の旋律だ。
松井が窓の外を見下ろすと、路地に子供たちが溢れていた。未就学児から中学生まで、無言で、機械的なほど正確な足取りで、廃屋の方角へ歩いている。手には一様に、色褪せた出席カードが握られていた。今年のデザインではない。十五年前の、あるいはそれ以上古い、角の丸まった「あの頃」のものだ。
「署員を全員出せ。道路を封鎖するんだ」
松井の命令は、スピーカーの音にかき消された。
廃屋に駆けつけた松井が見たのは、井戸の縁に立つ一人の少年だった。
見覚えのある顔だ。と思った瞬間、名前が出てきた。現職市長の息子で、太郎たちの一学年下の。
「待ってたよ、太郎君。ようやく時間が届いたんだね」
少年は井戸の暗闇を見つめたまま言った。その瞳には光がなかった。
松井が手を伸ばした瞬間、井戸の底から風が吹き上がった。
渦巻く砂の中に、五人の影が立った。十五年前の姿のままの少年たちが、微笑んでいた。この世のどんな喜びよりも深く、冷ややかな笑みで。
子供たちが、一人ずつ井戸へ入っていく。
「やめろ」
松井は叫んだ。最後尾の少女の腕を掴もうとした。指が、虚空を抜けた。すでに実体がなかった。
最後の子供が消えた瞬間、音楽が止まった。井戸が崩落し、土砂が周辺の家屋ごと埋めた。
静寂が戻った。セミの声も、風もない、完璧な静けさ。
足元に、数百枚の出席カードが散らばっていた。どれにも、判は押されていなかった。
翌朝。街から、十八歳以下の全員が消えていた。
松井が井戸の跡地に立っていると、後ろから足音がした。
佐々木健だった。二十五歳になった、あの夏の唯一の生存者。腹痛で引き返したことを、十五年間ずっと抱えてきた男。
「また来てしまいました」
「ここには来るな」
「わかっています」
健は跡地を見つめたまま動かなかった。やがて静かに言った。
「松井さん、僕はあの朝、太郎に言われたんです。帰れって。あいつ、最初から知ってたんだと思う。僕だけ帰すつもりで」
松井は答えなかった。
「僕の枕元にあったカード、覚えてますか。こっちは自由だ、って書いてあった」
「覚えている」
「続きがあったんです。ずっと言えなかったけど」
健はポケットから、十五年間折り畳んだままの白いカードを取り出した。
松井は受け取り、広げた。太郎の筆跡で、こう続いていた。
『でも健、お前は来なくていい。お前にはまだ、あっち側でやることがある。』
松井は空を見上げた。雲一つない青空だった。
どこかで、かすかにラジオ体操のメロディが聞こえた気がした。それが幻聴かどうか、松井には確かめる気力が残っていなかった。
この物語を書き始めたとき、頭の中にあったのは一つの問いでした。
子供が「消える」とき、それは悲劇なのか。それとも、ある種の救済なのか。
韓国のカエル少年事件、日本各地で記録された子供の集団失踪。これらの未解決事件に共通するのは、「なぜ消えたか」よりも「なぜ見つからないか」という問いが、より深い恐怖を生み続けるという点です。遺体が発見されれば、物語は終わります。しかし何も出てこないとき、人は想像するしかない。その想像の余白に、この物語を置きたいと思いました。
五人の少年たちにはそれぞれ、大人たちが「愛情」や「指導」と呼ぶものによって課された重荷がありました。物語の中で彼らは、その重荷を井戸の縁に置いていきます。スタンプカードを、キャップを、虫かごを、文庫本を、時計を。
それは逃走なのか、解放なのか。
私は意図的に答えを書きませんでした。ただ、「こっちは、すごく自由だ」という一行だけを残しました。その言葉が読者の目にどう映るか。喜びに見えるか、それとも取り返しのつかない何かに見えるか。その受け取り方こそが、この物語の本当の結末だと思っています。
「時間のズレ」というSF的な仕掛けは、子供と大人の間にある非対称性を描くための装置です。大人が管理する「時間」の外側に出た子供たちは、成長しながらも戻れなくなる。検死台の上の青年たちは、時間の外で生きた十五年の証明であり、同時に「こちら側の時間」に耐えられなかった存在でもあります。
最後まで読んでくださった方へ。
松井が空を見上げた瞬間、あなたの耳にもラジオ体操のメロディが聞こえたなら、この物語は書いた甲斐があったと思います。
では第2部でお会いしましょう




